スーパーネットストーカー 第一章 悪魔のマジック 2

「前のことはその場にいて見ていたわけではないので、いまはなんとも返答できません・・・」
 この小野村の後任のNという男が言った。彼が技官としてそこにいるのか、あるいは捜査官という身分になるのかわからない。「前のこと」とは私がこの数日、自宅のパソコンやネットカフェで試したことを言っている。それ以前のこと、五年前に同じような妨害を受けたことは彼は多分知らないだろう。

 このN氏に電話する直前に、市立図書館のパソコンでエアアジアのサイトを開いた。十月一日の昼過ぎだった。
 試すのはこれで三度目になる。どこでやっても同じなら気休めに過ぎないといえども、市立図書館のパソコンは、有害フィルターをかけて閲覧サイトを制限しているぶんだけ、すこしはマシなように思ったからだ。

 画面をフライト検索、フライト選択と進み、ゲスト情報に行こうとするがボタンが薄くなっていてクリックしても反応がなく、先に進むことができなくなった。
 公衆電話を使って県警のサイバー対策室に連絡を取った。既に小野村氏が移動になり、後任としてこのN氏が出向してきたことを知ったのは、二日前にここへ電話したときだった。そのときN氏は不在だったので、聞かれるままに他の捜査官に簡単に事情を説明しておいた。


 四年前、小野村氏に頼んだように、彼にその場で同じエアアジアのサイトを開いてもらい、試してもらうと、意外なことに同じ現象が出ていて、先に進むことができなくなった。エアアジア側のシステムに何らかの問題が生じているのだ。

「結局これはエアアジアの側の問題ではないですか」とN氏は言った。

「確かにエアアジアの券がエラーになって買えないという話はネットでもときどき目にします。ですが、数日間もつづくのは異常でしょう。この数日は、最終画面でクレジットカードの決済をした後のエラーにより購入できないということでした。自宅でもそうだし場所を変えてネットカフェでやってみても同じです。でもこのときは他の人たちは問題なく購入できていたと思います。日本のエアアジアのコールセンターに確認しましたが、エアアジアはシステム障害など起きていないということですから。それが今度はこんな現象が出て、だれも購入できなくなっているわけです。数年前にも同じ問題が起きてそちらに電話しています。」

「最初のトラブルについてはこちらで確認したわけではないので・・・」と彼は同じ言葉を繰り返した。

「いまもし誰かがエアアジアのシステムに侵入して悪さしているなら、それはわたしを妨害しているハッカーと同じ男だと思いますが」

「あなたを妨害するために航空会社が使っているサーバのシステムに入ってかく乱していると・・・」

 口に出した後で後悔した。私自身はあり得ることだと思っているが、今話すべきことではなかった。そして県警本部のサイバー対策室に電話してしまったこと自体も後悔し始めた。このことは小野村が対応してきた時に骨身にしみているはずだった。何の役にも立たないことはわかりきっているのに・・・

「ただチケットが買えないのは事実なので、他にも自宅のパソコンでドキュメントやソフトが勝手に削除されたりしますし、メールアドレスのパスワードが変えられてしまう。そういう現象を目の前で確認してもらうことはできますが」
 力の抜けてしまった声で、五年前と同じことを言ってみた。

「はあ。パソコンを持ってきてもらうことはかまいませんが、わざわざ電車で二時間もかけて県警本部に来てもらうよりは最寄の市の警察署で対応できます。こちらに来てもらってもできるのはウイルスチェックぐらいです」

 市の警察署にまともに対応できる人間はいないことは、最初に相談に言ったところだからよく知っている。むろん行く気はなかったが、どう返答してくるか聞きたかったので、それではウイルスチェックだけでもお願いしましょうかと言ってみた。
「ウイルスチェックといっても市販のウイルスバスターやカスペルスキーを使ってやるくらいですが。それが限界です」
 彼らは新種のウイルスも検出してそれをウイルス対策ベンダーに提供したりもする。そんな業務自体を知らないわけはないのに、まるで子供をだますような嘘をついてくる。この男に比べれば小野村にはまだ、かけらほどでも誠実さがあったことは確かだ。

 要はまるでやる気がないということだ。仮に現象を確認しても、最後にはエアアジアの問題だといってくるだろう。あるいは小野村のときのように、エアアジアや楽天銀行の被害届が無ければ動けないなどと言ってくるのだろう。
 あのとき、結局最後はどうしても現象を確認してもらうしかないので、既に触れたように、レノボの十五型の重いノートパソコンを持って列車に乗り、三時間かけて県庁所在地である県東部のB市まで行き、県警本部の生活安全局の中に置かれたサイバー対策室を訪ねた。

 ドキュメント、映像ファイルなどが削除されたりする現象は早くすれば一日ほどで出てくるはずだと。新たにメールを作ればパスワードが変えられ、さもなければメールが勝手に削除される。それらが確認できて納得がいけば、攻撃者のインターネット上の住所とも言うべきIPアドレスの特定をやってほしいと頼んだ。

 自分でそれをやらなかった理由はまた後で書くが、しかし彼らはなんだかんだと理由をつけて決してパソコンをあずかろうとはしなかった。預かれないのなら、この場でこのノートパソコンをネットに接続して、新規のフリーメールアドレスをつくり、私に知られないようにパスワードを捜査官自身が設定して、その後、どこのパソコンを使ってもいいから、このアドレスのメールが勝手に削除されたりパスワードが変えられたりしないかチェックしてほしいと頼んだ。そのしごく簡単な試みすら、慇懃無礼にすべて拒否された。

 N氏との不毛な会話を早々に打ち切って外に出た。図書館を出ると雨が上がって秋晴れになった空から、遊歩道に穏やかな陽光が降り注いでいた。
 今回の目的地はインドだが、チケットは関西空港からタイのバンコクまでのものを購入しようとしていた。それを決めたのは市役所のパソコンでインドへ飛ぶ便の値段を調べ、ネット上から申請するインドビザの記入の仕方をチェックしたときだ。 

 インドビザの取得は、世界中どこで取得しようとも、まずネット上からビザフォームの項目を入力してゆき、完成したらそれを印刷して、ビザセンターにパスポートと一緒に提出しなければならない。そこからパスポートにビザのスタンプが押されて返されてくるまで土日を除いて五日間ほどかかる。必ず最初にネットから全項目を入力してフォームを完成させなければならない。
 それはエアアジアの航空券の購入以上に気を重くする作業だった。

 同様の妨害が考えられたからだ。七ヶ月ほど前にネット上からこのビザ申請フォームを作成する作業を行ったときのことが思い出された。それは海外から行ったにもかかわらず、いまここで体験しているような悪夢そのものだった。そして今回はさらにもうひとつやっかいな問題が加わった。
 大阪のインド総領事館のサイトを見ると、インドビザの取得条件としてインドまでの往復の航空券が必要であると記されている。新しいルールだ。インドに行きっぱなしで帰ってこない連中のふるい落としだろう。
 格安航空券はエアアジアのようにキャンセルが効かないし、捨てるのがわかっていて往復航空券を購入するのは抵抗がある。長期で滞在しようとする者には気後れする話だ。インドビザの日本での取得がなんとなく気重になってきた。

 関西空港からマレーシアのクアラルンプールそしてそこから南インドのチェンナイへ飛ぶことが出来る。別のルートとして、関西空港からタイのバンコク、そしてチェンナイという行き方がある。このふたつのルートをエアアジアで調べてみると料金はそんなに変わらない。マレーシアのシンガポールとの国境に近い都市で取得すればインド出国のチケット提示は要求されないことも知っていた。またタイではインドビザ取得の代行を頼めるところがある。

 もし仮にそのあたりでインドビザを取得するなら、一週間以上滞在せねばならないが、タイならミャンマー同様、多くの僧院を知っている。五年前、ハッカーにすべてを破壊されて打つ手立ても無かったとき、人生を充電し直すために二年ちかく、上座仏教の僧院で過ごした経験がある。マレーシアにもいくつか知っている寺があり、泊まれば寄付だけですむ。
 そのために泊まるわけではないが、こういう国に滞在するときは、だいたいいつも寺に泊まることになる。安いゲストハウスの劣悪な環境では、夜も寝ないで騒いでいる連中に夜中に何度も起こされるのがいやだったし、静謐な環境で瞑想修行するのがなにより好きだった。

 その夜、ネットカフェに出かけてインドビザ申請のサイトを開いた。もし何事もなくプリントアウトできたら、そのまま大阪の領事館で申請し、直接インドに飛ぶことに決めたのだ。
 しかし、ネットカフェのパソコンの前で、最初の画面を見つめたまま何も入力することが出来なかった。

 前回つくったときのことが昨日のことのように蘇ってくる。タイ南部のサムイ島というリゾート地でつくろうとしたとき、かなりの数のネットカフェがあったが、どこでやっても、最後まで入力完了の画面を見ることができなかった。もちろんカード会社に連絡してカードの決済に何の問題もないことを確認していた。最後にやっとバンコクで作ることができたが、それはタイからインドまでの航空券を購入した販売代理店のスタッフに、余分な金を渡して代行して作成してもらったものだった。

 店を出て自宅に帰った。既に夜九時半を回っている。市街地から二キロほど離れた西北部にある古い建売住宅は、父親が退職金をすべてはたいて購入したものだった。母親の部屋は二階にあるが、外から見たとき窓の明かりが消えていたので、すでに床についているのだろう。
 一階の小さな居間のダイニングテーブルの上に旧式のレノボのノートパソコンを広げ、コードを挿した。二ヶ月前に帰国したときに、埃を拭き取って一年半ぶりにスイッチを入れた。三年余り前、ハッカーに何度もハイジャックされて、パソコンに入っていた映像ファイルやドキュメント、フォトショップというソフトまでが勝手に削除された。重要なメールが削除されたり、楽天銀行口座にログインしようとして、何度もパスワードがエラーになってログインできなかったこともある。ログインIDや暗証番号などを新たにはがきで送ってもらっても、ログインしようとすればすぐに邪魔された。ドライバーを削除されネットに接続できなくなったこともある。

 パソコンはリカバリーしてOSを入れ直している。私がいなければインターネットは誰も利用しないが、止めてしまうとキャンセル料がかかることや、光電話が利用できなくなることから、NTTのネット回線はそのまま維持していた。十日ほど前に今回日本にいる一ヶ月間だけ利用するつもりで、プロバイダーを新規に契約して二、三度ネット接続している。ウイルスソフトは一ヶ月だけ無料で使えるトライアルバージョンが入っているが、私には意味の無いものだ。市販のウイルス対策ソフトが問題解決の手段にならないことを知るのに時間はかからなかった。確かに検出能力の点で優れてはいるソフトもあったが、いくらウイルス定義データベースを最新にしていても、ウイルスを検知していないことがよくわかった。

 三、四年ほど前まではウイルスソフト万能神話とも言うべきものがまだ通用していた頃だったが、現在ではセキュリテイ専門の分野では、メジャーなアンチウイルスソフトでもウイルスの検出率は半分以下だとも言われていて、一般のユーザーの多くがそれを知り始めている。仮に感染したファイルが検出されて、それを隔離して削除したとしても、それ以外の感染が隠れている。
 私の常識としては、不正侵入されたらデータを捨てて、OSを再インストールするというのが常道となった。入られたらその時点で終わりということだ。ハッカーにつけ狙われてからは、パソコンで作業することができなくなったので、保存しておきたいデータもほとんど無かったからこういうこともできたのだ。

 たとえウイルスが侵入していたとしても、リカバリーしてOSの再インストールをすれば、すべて振り出しに戻ってきれいになると一般には考えられている。しかしウイルスはどこかに身を潜めている。何度も様々な方法を試した末に、当時、私が抱いたひとつの疑問があった。
 ウイルスは本当にに取り除くことができるものなのだろうか。そして仮に取り除けたとしてもそのことに意味があるのだろうかということだ。これはまた後にふれる。
 パソコンは短い時間だったが、リカバリーしてから二度ほど使用しているのが気にかかった。ここでもう一度ハードディスクをフォーマットしてウインドウズを入れ直してから使いたかったが、インストールCDは二階の物置の中の鞄に入っている。寝ている母親を起こしたくなかった。

 パソコンを立ち上げた。これは時間との勝負だ。ウインドウズのアップデートもまだ完全には終了していないが、ハッカーが入ってくる前に、一目散にインドビザのページに飛んでフォーマットを埋めてしまおうとした。ところが、その瞬間、はっと息を呑んだ。
 マイドキュメントに入れておいたファイルがいつの間にかデスクトップ上に出ていた。前回使用したとき、それに気づかずシャットダウンしていたようだ。あるいはシャットダウンする間際にハッカーがやったのかもしれない。
 いずれにせよ、いまこのパソコンを使ってインドビザ申請書の作成はしたくない。あるいはもう一度ウインドウズを入れ直してやってみても良いが、しかしプロバイダーも変えなければならないだろう。

 このパソコンを使うことをあきらめた。

 ただ心の奥で納得していないところがあった。何らかのミスで、気づかないうちに、私がこのドキュメントをデスクトップに移動したということはあり得ないだろうか。あるいはソフトなどの不具合でこういうことが起きるということはないだろうか?シャットダウンしてしまうことに、ほんのわずかながらも抵抗感があった。結局それに抗えなかったが、もちろんビザの申請はやる勇気は無く、ヤフーオークションで中古のスマートフォンをチェックしながら様子を見た。

 なぜかヤフオクで物品を購入したり、逆に販売するときもハッカーからの妨害はほとんどきていない。ハッキングしてくる相手の正体が未知のものでなく、すでに正体を知られているということが、私という個人を越えて、他の企業や組織への妨害行為を抑止しているのかもしれない。だから気に入ったものがあればこのまま購入しても良かった。登録しているクレジットカードは残高が無いので、銀行のATMから代金を振り込めばよい。ハッカーはいまもこの動きを見ているかもしれない。しかしスマートフォンを持ったことを知られてもたいした問題ではないと思った。

 他のサイトでもいくつかのスマホをチェックし、値段やスペック、販売店の情報をワードにコピーペーストした。と、突然ワードがフリーズして動かなくなった。タスクマネージャーからタスクの終了を押して強制終了しようとするがそれでも反応が無い。コピーしたもとのページに戻ろうとすると、そのタブがいつの間にか消されている。開いたタブの履歴を見ると、このページだけが履歴の中にも見当たらなかった。
 パソコンのシャットダウンが出来なくなっていたので、起動ボタンを長押しして強制的にシャットダウンした。馴染み深い憂鬱が胸に広がるのを覚えながら、居間のソファの上に横になり薄い毛布を被った。こんなことは飽きるほど経験してきたことだが、それでも新たに掻き立てられた怒りでその夜の眠りは低調になり、何度もいやな夢を見ては目が覚めた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?