スーパーネットストーカー 第一章 悪魔のマジック 1
「前のことはその場にいて見ていたわけではないので、いまはなんとも返答できません・・・」と受話器の向こうから答えが返ってきた。
顔も見たことの無い男だったが、私はなんとなく小柄で線の細い、どこかずるがしそうな雰囲気のある捜査官を想像した。彼は口元に薄ら笑いを浮かべながら答えてきているような気がした。
この男は三年前に何度か私が県警察本部のサイバー犯罪対策室に訪ねて行き、面談した小野村という捜査官の後任として出向してきたばかりだった。
都道府県のサイバー犯罪の窓口として各県警察本部にはサイバー犯罪対策室が置かれ相談窓口が開かれている。建前上はコンピュータやネットワークに関する専門的な知識や技能をもつサイバー犯罪専門の捜査官が働いていて、一般の相談に乗ってくれることになっているが、やや専門的な知識を要求される事案については、この男や小野村のような警察庁の情報通信部門から出向してきた、国家公務員資格を持つ技官が対応してくる。
警察庁の情報通信担当部門は一九九〇年代半ばに電磁的記録の解析のために設置された部署で、押収したコンピュータシステムに残っているデータやログ(アクセスの履歴)を調べるなど、電子機器一般の解析などを手がけていた。こうした関係から警察庁は都道府県警察のサイバー犯罪捜査に対する技術的支援や指導を行う立場となってきたという経緯がある。
私のケースは県警本部が本格的な捜査を行うその前段階で止まって、ほとんど単なる相談に終始していた。しかも相談していたときから三年以上にもなろうという長い空白の時間が経っている。それでもこの厄介な相談者が再び来訪してくることを想定して、ひよっとしたら小野村から申し送り事項として、私の相談内容がこの男の耳に入っているかもしれないなと思った。もしそうなら小野村はどのように説明しているのだろうか。
それはこの男の、木で鼻をくくったような受け答えの内容からは類推できない。話の内容についての真偽は判断保留にして、とりあえずこういう面倒な案件には関わり合いたくない。好意に解釈すればそんなところだ。あるいは精神的な疾患をもつ人物ではないかという疑念を抱いているかもしれない。
3年前に県警本部に小野村を最後にたずねたとき、すくなくとも彼と共に対応した捜査官は、極めて特殊なケースであると結論づけた。小野村もまた最後には私の訴えに対して或る程度の信頼性を置いたと私は思っている。しかしそれでも彼はログというアクセスの履歴を取ることを含めた捜査は現段階では難しいと言ってきた。
その理由はまた後ほど述べるとして、しかしそうなるまでに二ヶ月ちかくかかった。それまでは、私に対して起こっている現象自体のいくつかは、受け入れようとしなかった。ただし今考えれば、それもうなずける話だ。
この山陰の小都市で、豊富な顧客情報をもつ企業の管理職でもなければ、大きな組織に属しているわけでもない、社会から半ば放り出されたような、無職の五十男が遭遇する話しとしては、確かにこれはまったく似つかわしくなかった。
自宅のパソコンへの不正侵入についての相談が始まりだった。
むろんそれ以前に既に一年余りこのインターネットでの嫌がらせを受けている。心血を注いで二年ちかくかけて作り上げた二つのWEBサイトが、つぶされている。ひとつのサイトは完成度も高くグーグル、ヤフーでも短期間のうちに上位に表示されていた。わずかながらも利益が出ていたし、そのサイトを通じて知り合いになった人たちとの交流も生まれていた。それは確実に私の人生の一部になっていた。ただ小野村に相談するころにはそのふたつのサイトはネット上からすでに姿を消していた。度重なる妨害のために、サイトの維持を放棄せざるを得なかったのだ。
そしてそのサイトの改竄を繰り返していた同じ犯人が、今度は私の自宅にあるパソコンに侵入し、画像ファイルやドキュメントを削除し、ときにドライバーを削除してネットから切断し、ネットバンキングのログインを妨害し、メールを削除し、パスワードを変更しと、ありとあらゆる妨害行為を行ってきた。相談はそこから始まった。
電話相談の後で、小野村ら数人の捜査官が私の自宅まで出向いてきて、パソコンをチェックした。その後、今度は私の方からT市の県警察本部に何度か足を運んだ。小野村と他のの捜査官達との間にはネットワークやコンピューターはさておき、ことセキュリティの分野については、知識面でもかなりレベルの差があるように思われた。
リカバリーしてOSを入れ替えてもウイルスソフトに検地されないウイルスが残っているようで、短時間のうちに再び不正侵入されてしまうこと、嫌がらせを受け初めて一年以上経つので知識もそれなりについているので、一般のユーザーを超えたセキュりティレベルで使用していることなどを説明した。ここまでならまだしも一般的な被害相談の部類に入る。しかしそのときの相談は自宅PCへの不正侵入の問題だけではなかった。
街のネットカフェでも、あるいは図書館や市役所などの公共施設のPCを使用した場合でも、いくつか共通する現象が起きるということだった。ことにヤフーやグーグルのフリーメールの新しいメールアドレスを外のパソコンを使ってつくったとしても、すぐに察知されてしまうという問題も含んでいた。
それは銀行、クレジットカードなどの継続した取引をもつ企業や知人からのメールが、その新しいメールアドレスに入ってきた後に、ハッカーの手に落ちてしまうというものではない。つくって使用していないにもかかわらず、短時間のうちにパスワードが変えられてしまう。
それが無いときは、しかし重要なメールが勝手に削除されたりしている。自宅のノートパソコンでの現象だけではなく、街のネットカフェや公共施設のパソコンでも同じ結果になる。そしてそれは地理的にも予想外に大きな範囲に及んでいる。
問題はそのメールアカウントががまったく架空の名前と住所でつくられているにもかかわらず、検知されてしまうということだった。これを言えば必ず頑なな拒否反応が返ってきた。言葉には出てこなくとも、相手との距離間が一気に拡大してしまうのだ。相手はとたんに色眼鏡をかける。外のパソコンでネット決済が邪魔されるという事より、もっとあり得ないこととして認識されてしまう。
あなたの自宅のパソコンなら、ウイルスが取りきれていなければそういうことが起きるのは自然なことだ。でもそれがどうして外のパソコンで、しかも百キロ以上離れた場所でさえ起きるのか。しかもメールアカウントの登録は、名前をはじめとして架空の情報で作られていたというなら、あり得るはずがない。妨害者は新規で作られたメールをすべてチェックしているとでも言うのか。
その当時、いまだセキュリティソフトがウイルス対策の有効な手段であると信じて疑わなかったこの当時、私の体験は聞くものにとってハッキングではなく、マジックだった。
最初の段階で、私はこのことは言わないで伏せておいた。しかしすぐに或るネット犯罪の手法を知り、あり得ることだと考え始め、これも小野村への報告の中に加えた。しかし当時はネット上でも利用できる情報は限られていたように思う。こちらの知識不足もあって、会話はときにかみ合わないままで終わった。
その後、数年の間こうした事を何度も体験するうちに、私なりにその種明かしをしていった。このタイプのサイバー攻撃についての詳細が、ことにこの一、二年のうちにネット上にあふれはじめ、多くの知りえなかったことがわかってきたことも幸いしたようだ。このことは徐々に話してゆくことにして、ここではそのもっとも極端な例についてひとつ紹介しておきたい。
それはこんな事件だった。
関西空港の到着ロビーにある有料のパソコンを使って、新しいヤフーメールアカウントを架空の名前と生年月日、住所を使って作成してからチェックインし、搭乗口の近くにあるパソコンで三十分前に作ったこのメールアカウントを開こうとすると、すでにパスワードが変えられていて開けないということが起きたことがある。
小野村にこの話をしたとき、それは全くありえないことで、妨害ではなく最初に作ったパスワードを正確に書き留めなかったからだと目をむきながら答えてきた。このとき詳細な種明かしをして反論したわけではない。しかし次第にネット上にもこの謎解きに関連すると思われる情報が顔を見せ始め、こういうこともまたハッカーが行う不正侵入の結果として、十分にあり得ることだということがわかってきた。
もちろん現在でもこういう個人に的を絞った高度な攻撃については事例を探すことも困難だし、その関連情報は限られたものしかない。正確に言うならそれは体験による推理としてわかっていたのだが、その実証的な側面をある程度ネット上から得ることが可能になってきたということだ。当時はこういうことはまったく期待できない状況だった。
ちなみにパスワードの入力は、嫌がらせを受け始めてから常に慎重に行う習慣をつけている。新しいメールアカウントを登録した直後、必ずメモしたパスワードを見ながらログインしている。だから一度は正しいパスワードでログインしているのだ。そしてそれはきちんとメモに残している。
そのメモを見ながら、再度ログインしようとしてエラーになったのだ。当然何度も試している。その翌日も別のパソコンでチェックしログインできなかった。またこういうエラーが生じたときはクッキーを削除したり、FIRE FOX を再起動したりして確認することも多い。OSの不具合などの影響や打ち間違いはあり得ない。
そして海外でも同じ目に遭う。二年前、スリランカから出国直前に空港のパソコンで、スリランカ人の名前を使ってつくったヤフーメールを、到着した関西空港で開こうとするとすでにパスワードが変えられていた。そんなこともあった。
私自身の人格か、さもなくば精神状態に問題があるのではと受け取られるような、特異極まりないケースの相談をしているうちに二ヶ月ちかくが過ぎた。。
ハイジャックされているノートパソコンをそちらに預けるから、それでどんな現象が出てくるか確認して欲しいという私の提案を県警側は拒み続けたし、また有益なアドバイスを授けてくれることもなかった。そのうち、さらにもうひとつ相談事項が増えた。これも私を非常に特殊なケースとするに十分なものだ。
五年前のちょうど今と同じ十月の半ばに個人的な用があってバンコクに行くために、エアアジアのチケットを購入しようとしたときのことだ。
その航空券を買うことが出来なかった。
格安航空会社はネット上でクレジット決済することで購入する。フライトを選択し、個人情報を入力して最後にクレジットカードの番号を入力して確定ボタンを押す。購入が正しく完了すればフライトスケジュールが登録したメールアドレスに送られてくるのだが、これができなかった。
クレジットカードのネット決済に関して、何も問題ないことは事前に確認している。にもかかわらずネットカフェで、公共のパソコンで、場所を変えて何回やっても様々なエラーが生じた。自宅でもあるいは外のパソコンを使っても。
クレジットカードのネット決済には、カードに問題が無くともエラーが起きることが間々ある。それはシステムの不具合によって連続して起きることもある。しかし数日にもおよび、様々な場所で試しても同様にエラーになり、しかもカード会社になんらのシステム障害も起きていないしメンテナンスもしていないとすれば、どのように考えればいいだろうか。
その同じ状況が三年後の現在起きていた。今回もバンコク行きのチケットだったが、最終的な目的地は南インドを予定していた。
私は四十代の後半から東京で自営業者として二度の失敗をしている。その前は今で言うフリーターのはしりのようなものだった。ラジオの構成台本を書いたり、売れてはいなかったが劇画の原作者だったこともある。週刊誌の記者やゴーストライターをやっていた時期もある。プロダクションに在籍した経験もあるが、ほとんどフリーランスとして関わっていた。
いろいろな転機もあって、四十代の後半に両親が住むこの山陰のA県にある代表的な商業都市であるB市に戻ってきた。ハッカーによってつぶされてしまったが、制作したWEBサイトによって生活の建て直しを図ろうとしていた。この件を合わせると失敗は都合三度になる。
独り身なので生活はかなり自由がきく。三度目の失敗の後、数年間の充電期間を経て、新天地をインドと奄美に求め、二年ほど前から、ささやかな農業関係のプロジェクトを個人的に進めていた。その関係でこの二年間に何回か奄美とインドを訪れている。
もっともインドは二十年近く前からときどき訪れていて、植林などのボランティア活動もやったりと、なにかと馴染みの深い国で、現地の言葉もすこし喋ることができる。今回はそのプロジェクトの仕上げにあたり、一年以上の長期滞在を予定していた。新しい人生の出発でもあり、どうしても必要なチケットだ。
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