巡り巡った京都 人権・差別の学び

京都に行ってきた。
巡り巡るというのか、出会いは出会いを呼ぶというのか。
いつもの京都とは違う、学びの旅ができた。

今までも人権、差別について勉強してきたが、自分の考えが及んでいなかったことに気付かされた。

始まりはももこさん(Vintage shop Mémoire オーナー)が昨年、京都に訪れた際に被差別部落を訪れたことから。
堂本印象美術館でボランティアの元教員の方にそのことを話すと、ウトロ平和祈念館、京都芸術センター、世界人権問題研究センターの存在を教えてくれた。

翌々日予定が空いていたので早速ウトロ平和祈念館を訪れた。

京都府宇治市ウトロ地区。
2021年に放火事件があったことを記憶している方も多いのではないでしょうか。
「韓国人が嫌いだった」から放火したというヘイトクライム。

ウトロ地区は朝鮮半島が日本の植民地だった時代、飛行場建設のための労働者が朝鮮半島から集まった。
その人々が飛行場建設中止になった後、行き場をなくし暮らし続けた地域だ。

他に住むところの用意もないなか、立ち退きを迫られたり、水道がない、水はけが悪い、そのため大雨が降るといつも冠水したという。

同じ人間が暮らしている中で「朝鮮人」だからと差別をされてきた人たち。その暮らしを本人たちが語る展示が胸に迫る。

差別とはどこから生まれるのか。
同じ人間なのに人種が違う、肌の色が違う、国が違う、宗教が違う、それだけで差別する。
植民地支配している側が上、されている側が下。
人間の優越を人間が決めるものなのか。
考えてもまとまらない気持ちを残したままウトロ平和祈念館を後にした。



その翌日、京都芸術センター、世界人権問題研究センターへ。
世界人権問題研究センターは残念ながら休館のようで見学できず。

京都芸術センターは明治に建設された元小学校で、建物が素敵だった。
ギャラリーでは展示が行われ、図書室では貴重な資料を閲覧できる。

私たちは図書室である画集と出会った。
山本 作兵衛の筑豊炭坑絵巻だ。

筑豊炭田は戦前の最大炭鉱地で福岡県にある。

炭鉱といえば炭鉱マンのイメージが強いが、女性も働いていたこと、強制労働者がいたことを知った。
強制労働者は辛い仕事から逃げて、捕まれば拷問が待っていた。

ウトロ地区の強制労働同様、重労働し、劣悪な住環境で暮らした。

筑豊炭鉱絵巻には体験者として炭鉱で起きていたことが鮮明に描いている。

私のまったく知らないところで強制労働者がいて、差別されていた。
この事実をたくさんの人に知ってもらいたいと思った。


そしてその翌日は昨年の夏に出会った某大学の講師の方に崇仁地区を案内してもらった。

崇仁地区は全国でも最大規模の被差別部落。
JR京都駅から徒歩ですぐとは思えないほど静か。
今年、京都芸大が移転してくるということで、更地が目立つ。
さらにその更地はホームレスなどが入り込めないようフェンスで覆われていた。

ウトロ地区と同じく、劣悪な住環境で暮らしていた崇仁地区の人々。
1956年建てられた「改良住宅」は風呂もエレベーターもない、とても狭い住まいだったという。
それでも当時、住民は喜び、長年そこで暮らしてきた。
しかし今度は芸大が来るからと立ち退きを強いられた。
長年暮らした家を離れたくないと思うのは当たり前。
そんな権利さえ奪ってしまうのが行政。

他県から京都に来て暮らしている人の話も聞いた。
若い世代では被差別部落などへの差別は減ってきているという。
しかし、親世代にはまだまだ差別が色濃くのこっているようだ。


生まれた家、国、人種、肌の色、宗教、ジェンダー、障害…
同じ人間なのになぜ差別が起こるのか。
生まれる時に自ら選ぶことのできないそれらを振りかざし、差別する。
もしも自分だったら、家族だったら、友人だったら、という想像ができないのか。
悲しいし、やるせない。
しかしそんな世界を変えていかなければいけない。

人はみな違う。それゆえにぶつかることもある。
それを差別して乗り越えた振りをするのはやめよう。
私たちはみな同じ人間だ。それ以上でも以下でもない。
手を取り合い、助け合いながら暮らすことがどんなに幸せか。

日本国内の在日外国人(特に東アジア)の人たちの多くは差別されないために日本名を名乗り暮らしている。
世界中で右傾化が進んでいる。それは自国民だけを守り、外国人を排斥する。
外国人というだけで、身分を隠したり、決まった地区に集められたりすることはあってはならない。
人権とは「人が人として、社会の中で、自由に考え、自由に行動し、幸福に暮らせる権利」である。
その人の属性で人権は変わらない。

差別のない世界を願うばかりだが、当分は憂う日々が続きそうだ。

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