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最近の出来事と村上春樹

今年も残るところ2ヶ月半ほどですね。
同期にこれを言うと怒られました。虚しくなるからやめてと切実に言われてしまいました。

最近あったことを少しだけ書きます。

高校時代の恩師が書いているブログを見つけました。恩師といっても、担任でも顧問でもなく本当に授業の時にしかほぼ関わりのない教師。現代文の先生です。
学生時代は読書感想文やら自由記述問題やら小論文やら色々書かされ国語の先生に提出しますが、
そういえば先生が(ちゃんと)書いた文章って読んだことなくないですか。
気になりませんか。何を感じてどんな語彙を使ってどんな表現をするのか。

私は毎日1記事ずつ、先生のブログを読んでいます。私が在学している時にはすでにいくつかの投稿があり、一番最近の記事は数日前となっています。いつか会えたら、と希望を抱いてしまっています。


村上春樹の『色彩を持たない多崎つくると、巡礼の年』読了。村上春樹の文章は不思議です。『1Q84』を読み終えてから気付いた事なのですが、たまに本の中の情景を思い出すときがあります。小説(特にフィクション)を読んでいるとき、私たちは文字を頼りに想像をします。情景、人物の顔、香り、色、音。想像の生地を練って映像をつくります。それはあるいは虚像です。

なのに、それを実際に私が体験した記憶のように映像(もしくは静止画)が思い起こされるときがあるんです。でも、やっぱりそれは本物の記憶と同じく断片的です。(しかも実際に村上春樹が思い浮かべて描写したものなどとは乖離している可能性も大いにある)

『1Q84』を読んだのは3年前のちょうど今ぐらいの時期でした。1ヶ月前に読んだ本のことも思い出せないことが多いのに、なんで彼の文章だけこんな現象が起こるんでしょうかね。描写が詳細で繊細だからなのか、はたまた独特な比喩のせいか。なんなんですかね、ほんと。
『1Q84』に関しては、ストーリーを思い出してきちんと説明することはできないです。でも、青豆が高速道路側にあるハシゴをヒールを脱ぎ捨てて降りているところや、お上品なおばさま(どんな立ち位置の人か思い出せない)の自宅の庭でティータイムしているところや、公園で月を見上げているところなんかをよく思い出します。

ドラマや映画の映像で観たものを思い出すというより、実体験の記憶を思い出す感覚に限りなく近い。うーん、謎は深まるばかり。

こんだけ語っていますが、ハルキストではありません。

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