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私は絶対に「女」だけど「男」にもなりたい――そんな「性(ジェンダー)」を考える

 みなさんは異性になりたいと思うことはありますか?

 私は「女」としてこの世界に生まれました。そして「女」として社会に生きています。でも私は時々「女の身体」に嫌な気持ちを感じます。胸ももっと小さくて(もはやなくても)いいし、鏡に映るふっくらとした女性的な体つきを見て悲しくなるのです。「なんで男じゃないんだろう?」と。

 今回はそんな私の複雑な「性」に対する気持ちについて、現時点で感じ、考えることを整理したいと思います。まだ混乱の中にあるので、まとまりのないところも多々ありますが、興味がある方はぜひ、ご覧ください。

私は「女」。でも「男」になりたい理由って何?

 ここで大切なのは、決して女であることが常に嫌なわけではないことです。メイクすることも大好きだし、鏡の前で“女の子っぽい”ポーズをとってみるのも楽しい。気分がいいときはスカートをはいてわざとらしく内股にしてみたり、手足の動きを女性らしくしてみたり。ロリータみたいなかわいい服を着てみたい気持ちもあります(華奢じゃないので怖くて実現できてないけど)。

 私は確かに「女」で、それには満足しています。それでも、私は男になりたい気持ちがあります。かっこよくなりたくて、ショートカットにして(しかも年々髪を短くしている)、“男っぽい”服を着るのも好き。ボーイッシュ、なんて言葉があるけど、私がなりたいものは違う。私は「女」という存在から、本物の「男」になりたいと思うときがあるのです。

 私を構成する身体は昔から肩幅が広くて、比較的がっちりした体格。身長は160半ばくらいだから、女の子としてはそれなりに大きい方です。ごくごくまれに「男」に間違えられることもあります。でも肉づきは「女」そのもの。胸もくびれも、張った骨盤もどうにもこうにも「女性らしい」とされる特徴です。それが一番、嫌に感じます。

 身体の「女」を感じながら、なぜ「男」になりたいと思うのか。幼い頃は「男の子が羨ましい」という感情だったように思います。身なりをそんなに気にしなくていいし、道具だってかわいいものを選ばなくていい。そして何より、強い。今思えばそんなこともないのかもしれませんが、そういうところが羨ましかったような気がします。

 「女」であるときの私にとって「女」として扱われない状況は、居心地がいいものです。幸運なことに、まだ「女だから」という理不尽にあまり遭ったことはありませんが、一番嫌なことは「女」という性別ただ一点で縛られることなのだと思います。つまり、私はどこかで「男」という性に「女からの脱却(解放)」を求めている、そんな感覚があります。

 両親は女の子だから、という扱いはしなかったし、2つ上の兄もいました。だから幼い頃から自分は「女」というカテゴリにいながら、そういった考え方が薄かったのかもしれません。ピンクよりも青が好きだったし、スカートよりズボンの方がよかった(動きやすいし)、という意味では昔から「男」らしさを持っていたとも言えます。恐らく、そういった「男」らしさを「女」という型にはめられることによって捨てるのが嫌だったかなと今は考えています。

 高校の入学式(制服がない高校だったので自由なスーツでした)でも、ネクタイを締めていました。

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スイッチで入れ替わる「性」?

 中高で少しかじった演劇も、男または中性的な役をやる方が楽しかった記憶があります。声も体格もあって、そういう役はよく回ってきました。同時に、創作が好きになり、物語を作るときはいつも台詞を自分で口にして、演じて作るようになりました。

 それもあってか性別の身体的な特徴が出るようになるその頃から、私は性別を「演じる」感覚を強く感じるようになりました。動きや言動の性差を意識的に使い分けるようになったのです。

 趣味の現場に行くときは大体「女」。それなりにおしゃれなレディースの服を着て、メイクもします。学校には中性的な格好で行くことが多く、通学中や男の子と話すときは「男」でいるような気がします。レディースの服はサイズが合わないこともあって、クローゼットには男物も少なくないです。だから毎朝着替える前はかわいい方向か、かっこいい方向か、どっちの気分かというところから始まります。

 私はスイッチのようなもので「男」と「女」を入れ替わっている――そんな感覚が近いでしょうか。

 性別を2つのみと考えるのは現代ではナンセンスでしょうが、染みついた感覚の中では2つの典型的な型に囚われているのかもしれませんね。私は「かわいい女」と「かっこいい男」になりたい気持ちが混在しています(あと少し、「かっこよくて中性的な女」にもなりたいです)。でも、どちらか一方で常にありたいと思っているわけではないようです。

 推しの選手(写真)と写真を撮る私。ユニフォーム着ちゃってますが、兄のブルゾンをうば……借りています。これはどれかというと中性的な感覚でしょうか。サンダル履いているので「女」寄りかもしれません。

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どんな言葉で「私の性」を表せるのか?

 では具体的に私はどんな風に自分自身の性を、「女」でも「男」でもありたいそんな欲張り(?)な自分の性をなんと言えばいいのでしょうか。
今はLGBTQIA+(という呼称が適切?)という言葉が浸透し、性のあり方、多様性を認めようという動きがあり、日本でも少しずつ情報が増えています。ここからは私の性自認について、本やネットで得た付け焼刃の知識で色々思い悩んでみます。

 性別を「男」と「女」という2つの型に押し込んだ場合、身体と心の性別が完全に一致する、いわゆる「普通」の人が「シス」。そして、片方の性に生まれながらもう一方の性であると認識するのが「トランス」。私は「女」の身体を持ち、「女」であることを認識しているので、「シス」でしょう。

 しかし本を読んでいくと、私が時に「女の身体」に嫌悪あるいは違和を覚える以上、「シス」は答えの一つではありますが完全な正解ではないような気もします。2つの性別が混在するという意味では「バイジェンダー」という言葉がありましたが、私自身には「男」であるという認識が薄いのでこれも違うと思います。

 ほかに何か私を構成するジェンダーが存在するのではないか、次に登場したのは「デミ」という考え方。特定のジェンダーに部分的な結びつきを感じる――私の解釈では「あるジェンダーへの帰属意識がありながら、やはり違うものであるという認識がある」。正直解釈が合っているかはよくわかりませんが、私は「デミガール」ではないように感じます。

(さあ、どんどんわからなくなってきました。こうやって考えているうちに、ジェンダーって何だろうと強く思わされます。個人の考えや感覚の中で、「男」と「女」はあまりにも広義で曖昧で、自分の描く性別というものがよくわからなくなってきます。こういった答えのない問題を考えるのは楽しいですが、とても果てしないものですね)

 しばし悩んで、私が一番これだ、と思ったのは「アンドロジン(アンドロジナス?)」という言葉。「男らしさと女らしさ両方の特徴を併せ持つ」という意味から転じて「どちらの特徴も持たない、または中間の特徴を持つ」と広い言葉のようです。本によると、「アンドロジニー」という概念はジェンダーだけでなく、ファッションや興味などさまざまなものにあてはめられ、シスにもそれ以外の人にも使えるそうです。

 現時点で私が知っている言葉のなかで、一番しっくりくる言葉でした。「女」でありながら、「男」にもなりたい。自己認識は「女」だけれども、自己表現の性がスイッチのように男女を入れ替わる。「アンドロジン」今のところはこう言うのが落ち着く気がします。またいい言葉に出会えたら変わるかもしれませんが……。

 そしてもう一つ面白い言葉「ジェンダー・コンフュージョン」。わざとジェンダーについて混乱を引き起こそうとしたり、それに喜びを感じるひとのことらしいです。これはすっと私の中に入ってきました。私は確かに男の子に間違われたとき嬉しく感じていました。だからこの言葉は私を構成するものだと思います。

おわりに

 自分が本当に自分の事を「女」と認識しているのか?「男」になりたいのか?というところは実はわかりません。私の中で「女」も「男」も身体的特徴以外に区別がついてないところがあり、案外「性」を感じてないんじゃないかと思うところもあります。今も性別で区別(差別)されるのは大嫌いなので、そういうものへの反抗の現れなのかもしれません。本当に不思議で曖昧な世界です。

 整理しているうちに、自分がどうありたいのかを見つめることができました。やるなら徹底的にやりたい……ということでまずは「男っぽい」短さに髪を切りたいと思います。それからまた色々試してみて、何か気づいたらまた書きたいですね。

 ここまで読んでいただきありがとうございました。言葉の定義など、間違っていたら申し訳ありません。長々と、ふわふわとした話でしたが、こんな風に考える人もいるんだと思っていただければ幸いです。

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 最後にクマノミの写真を。生物の世界では、雌雄同体というものもよくあるみたいですね。社会がなければ、こんなに悩まなくても済むのかな?

参考文献
・「13歳から知っておきたいLGBT+」(アシュリー・マーデル著、須川綾子訳、ダイヤモンド社)

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