ヘビトンボの季節に自殺した五人姉妹|アリス好きの本棚|
ジェフリー・ユージェニデス著「ヘビトンボの季節に自殺した五人姉妹」(ハヤカワepi文庫)の読書感想です。
1993年に発表され、ソフィア・コッポラ監督によって、原題「ヴァージン・スーサイズ」のタイトルで映画化もされています。
https://www.youtube.com/watch?v=9gFH3t97C7Y&feature=share
物語のあらすじ
舞台は1970年代のアメリカ、ミシガン州。
厳格なカトリック信者であるリズボン家には、美しい5人姉妹がいました。
雌牛のような穏やかな目をした、理系少女のテレーズ。(17歳)
ちょっと気取り屋で、体毛が濃いことを密かに気にしているメアリィ。(16歳)
他の姉妹よりも長身で、音楽好きの内気なボニー。(15歳)
快活で、厳格な家庭環境下の中でも開放的な振る舞いを見せるラックス。(14歳)
いつも裾を詰めたウエディングドレスを見に纏い、浮世離れした言動で周囲を翻弄するセシリア。(13歳)
彼女たちは皆、輝くような金髪、ふっくらとした健康的な丸い頬で、近所の少年たちの憧れの的。
しかし、末娘のセシリアが、自宅のバスタブ内で手首を切るという衝撃的な事件を起こします。
幸い、一命はとりとめたものの、セシリアとリズボン家は一気に街の人々の噂の的に。
状況を危惧したリズボン夫妻は、ホームパーティーの開催を決意します。本作の語り部である「ぼくら」の元にも招待状が届けられました。
不可侵の領域であった姉妹たちの家に、初めて足を踏み入れた「ぼくら」。
今まで、五人揃ってぼんやりとした霞のような存在だった姉妹たちが、それぞれ個性の違う、自分たちと同年代の少女であることを実感します。ぎこちないながらもパーティーは滞りなく進み、和やかに終わるかと思われました。しかし、その最中に悲劇が……。
「傍観者」の視点から語られる物語
まず、この小説、五人姉妹の内面・心情は全く描写されません。元々、姉妹の近所に住んでいた「ぼくら」が大人になり、姉妹が自殺に至るまでの過程を回想する、という形式をとっています。
「ぼくら」以外にも、姉妹の両親、クラスメイト、近所の住人たちの、当時の姉妹に関する証言が、ちょくちょく作中に出てきます。しかし、その証言は、時に食い違い、各々が自分に都合よく事実を脚色しているのでは?という疑問に思う箇所も。
特に、「ぼくら」がセシリアの死後、彼女の日記を入手して読む場面があるのですが、そこから彼らが想像する姉妹の日常風景は、想像というには生々しく、現実感を伴って文章から伝わってきました。
憧れていたとはいえ、あくまで顔見知り程度の少女たちについて、微細にわたり空想を広げていき、内に抱えていた想いを掬いあげようとする彼らの姿に、どこか薄気味悪ささえ感じてしまいます。
表現し辛いのですが、無花果を食べようとして中を開いたら、腐り切って断面が茶色くぐじゃぐじゃになっていた時のような気持ち悪さ。
ヘビトンボの正体
大人になった「ぼくら」にとって、姉妹たちは過去に生きていた人間。人々の食い違う証言の中、薄れゆく記憶の中にしか存在しないのです。
そのことを考えながら読んだからか、最後の一文が印象的でした。
美しい姉妹に向けられる、好奇・同情・畏怖の視線が、無数のヘビトンボへと姿を変えて、姉妹の姿を覆い隠してしまう……そんな、グロテスクな光景が、読み終わって最初に頭に浮かびました。
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