盆にはご先祖様が精霊馬に乗って現世に御帰りになられるからねと、足に見立てた割り箸を茄子や胡瓜に挿しながら言う祖父の穏やかな横顔を、未だ鮮明に覚えている。

 数年前に事故で亡くなったおじいちゃんは、本当にあの茄子とか胡瓜に乗って帰ってきているのだろうかと、盆になると毎年思う。
 長年の農作業の賜物とも言える、まるで野球で使うグローブみたいに大きな手指は、細やかな作業が得意ではなかったらしい。やけに足の短いような、ずんぐりむっくりでちょっと不恰好な精霊馬を毎年苦笑いしながら作っていた。
 ふとその不恰好な精霊馬に跨った祖父を想像して、なんだかおかしくなる。

 若い時は村でも有名な男前だったと聞いた。物置の中から見つけた古い写真に写る、この精悍かつ端正な顔立ちの好青年は誰かと聞いたら、はにかみながら「若い時のおじいちゃんだよ」と言われて驚いたのを覚えている。
 小柄な割に体が頑丈で武道もこなす剛健さ、田舎の百姓生まれにしては頭の回転が早い切れ者で、三味線や歌、絵などの芸事にも長けた多才な人だった。
 甘い物が大好きで、いつもこっそり買い溜めて食べているのを祖母に目撃されては、糖尿になるからほどほどにしろと口酸っぱく言われてしょんぼりとするような、お茶目でかわいらしいところもあった。
 私はそんな祖父が大好きで、幼い頃は祖父が農作業をしている最中も、その後ろをずっとくっついて歩いていたくらいだ。

 昔はとてつもなく厳しくて、ずっと頭が上がらなかったと母は言うが、孫の私にはそんなところは一切見せず、猫可愛がり状態で可愛がられていた。
 目一杯優しくて、何をしても褒めそやして可愛がってくれる祖父のことが大好きだった。

 いつも穏やかに微笑みながら、取り留めもない話に耳を傾けてくれるところが好き。
 独り言のように山の話や動物の話、農業の話をしてくれるところが好き。
 機嫌がいいとお気に入りの古い歌を口ずさむ、艶のある声が好き。
 お母さんたちには内緒だよと私の手にお菓子を握らせるそのお茶目な顔が好き。
 私が悪戯をすると困ったように笑いながらいけないよと窘めて、優しく頭を撫でてくれた大きい手が好き。
 私が京都に進学しに行きたいと行った時、親族に大反対される中ただ一人「好きに生きろ」と言ってくれたことが好き。
 火葬場で見た乳白色の太い骨すらもその豪胆な生き様を表しているようで、素敵だとしか思えなかった。

 おじいちゃん私ね、今幸せだよ。
子どもが2人できたの。おじいちゃんから見たら曾孫だよ。下の子は不思議とおじいちゃんによく似た子で、隔世遺伝かな、なんて親族みんなで笑っちゃうくらいそっくりだよ。
 京都に来ても憧れていたお師様に弟子入りすることは出来なかったし、仏師になることも叶わなかったけれど、新しくやりたい事を見つけて目標ができて、すごく充実した生活を送れてるよ。
 おじいちゃんが教えてくれた三味線、もう暫く弾いてないから全然弾けなくなっちゃったかもしれない。
 長唄は元々苦手だったからもう音を取るのすらできないと思う。せっかく教えてくれたのにごめんね。
 もっとね、おじいちゃんに話したい事いっぱいあるんだよ。いっぱい聞いてほしい事があるんだよ。聞きたいこともたくさんあるんだよ。

 でも一番言いたいのはね、お願いだからあの日、外に出ないで欲しかったってこと。
 雨が降って地面がぬかるんでるのわかってたでしょう。草刈りなんていつだって出来たよ。どうしてあの日じゃなきゃいけなかったの。
 そばに居たら、一緒に住んでたら、今日は外に出るのやめとこって、お茶淹れるよのんびりしよう、久々にゆっくり昼寝でもしようって、ソファに括り付けてでも絶対に外に行かせなかったのに。

どうして時間は戻せないんだろう。
どうしてあの日のあの瞬間に戻れないんだろう。
どうしておじいちゃんは戻ってこないんだろう。

 いつまで経ってもそんなことばかり考えている。
最後に見た祖父の薄ら白い顔と、心電図の平坦になった線だけが事実としてあの日に取り残されたまま、私の時間は止まることなく数年の月日が過ぎてしまった。
 記憶の中の祖父の顔が、時間の経過と共に薄れ、褪せていくのが怖くて堪らない。
 遠くまでよく通るのに柔らかな声が、土と稲の混じったような芳しい匂いが、無骨で大きな手の温もりが、遠く遠くのものになって、いつか思い出せなくなってしまっていくことが切なくてやりきれない。
 そして祖父を思い出すたび、身を裂くほどの後悔と絶望が未だ絶えず、前に進めないまま、顔を上げられないまま、こうして想いを綴ることでしか供養することができない。

 「凛と在れ、強くなくてよいから、やさしく在れ」というあなたの言葉だけが、幾度も立ち止まりかけた私の脚を叱咤して、辛うじてここまで歩かせてくれました。
 あなたが言うように凛とは在れないし、気が強くて人にも自分にもやさしく在れない。
 不甲斐ない孫でごめんねおじいちゃん。
 でも、あなたの言葉で私は今も生かされています。
 もういないあなたの面影を追いながら、涙する夜を幾度となく過ごしてきました。
 けれど、あなたの言葉が幾星霜もの月日を超えても生きた言葉として存在する事実だけが、私を支えてくれています。
 凛とは在れない。強くもやさしくも在れないけれど、いつか黄泉路でまた逢う時、よくやったと笑ってくれる顔が見たい。
 ただそれだけが私の望みであり、私が前を向いて生きる理由になればよいと思いながらこうして想いを昇華しています。
 来年の盆も、今度は私の作った精霊馬を用意しましょう。私も決して器用ではないけれど、少なくともおじいちゃんが作った不恰好な精霊馬よりかは、乗り心地は悪くないかと思うから、どうかお使いになってお帰りください。
 そして私の命が尽きてそちらへ行く日がきたならば、また盆には私の子や孫が作った格好の良い精霊馬に乗って共に帰りましょう。

 そう思いながら作る精霊馬はやっぱりちょっと不恰好で、変なところが似たもんだと思いながら笑う夜更け。
 一抹の寂しさと抱えきれないほどの後悔と、そして未来への展望と、あなたに想いを馳せる8月16日。

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