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はたらくってなんだろう。

昨年の春、夫は40年勤めた会社を、私は12年勤めた最後の職場を退職した。
今、私は、日々「人生最高の日」を更新し続けている。
生きるって素晴らしい、そして、ありがたい、と心から思っている。

そんなある日、note のお題に「はたらくってなんだろう?」を見つけた。
何かが引っ掛かった。
ざわざわした。
私の内に隠れている「それ」を見つけなければと思った。

3日間、溢れ出した言葉と考えをシャーペンでノートに写した。

そして、線で囲んだ四角の中にあるのは

「はたらく」= 自分にとって大切なひとのために、
もっている全ての力を使う

そこに至った時、少し涙が出た。

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共通第一次学力試験 と 男女雇用機会均等法

高校3年の1学期(昭和55年・1980年)ひとりの友人が私に言った。
「就職のことを考えたら4年制はだめだわ。短大にすることにした。だから、共通一次も受けない」

そして、2学期、同じ友人は次のように言った。
「企業への就職よりも教師がいいとわかった。安定して長く勤められるもの。教育学部にいくことにしたから、共通一次やっぱり受ける」

そして、彼女は、教育系の国立大学に入学。
以後、今も教員を続けているし、校長になる日も近い。
恐らく65歳の定年までは勤務するだろう。

     ・・・・・

昭和56年・1981年に高校卒業
昭和60年・1985年に4年制大学卒業(現役合格の場合)の私たちは
*共通第一次学力試験、施行3年目
*男女雇用機会均等法成立の年(施行は翌昭和61年)
という大きな社会の変革の真っただ中にいた。

時代の移り変わりの波にもまれた模索の日々の下では、「女性が仕事に就く、ということはどういうことか」を真剣に考える女子生徒が増え、「男性並みの社会進出」を目標にできることを嬉しく思い、また、心待ちにした人が増えた時代だった。

でも、実際に制定されたその法律は

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1999年に第1回改訂がされる前までは、あくまでも「努力義務」。
社会進出を心待ちにしつつも、実際には、残念な思いをした人も恐らく多かっただろう。

安定と安心を選ぶ

そのような時代背景のなか、当時、私は何を考えていたか?

先に記した友人ほどに、私は社会の現状を把握しておらず、進学した大学は、文学部の英文科であったし、一応、資格という意味では、教職を取り英語の教員資格は得たものの、それを実際の職業に生かすことは殆ど考えなかった。
ただ、のんびりと米文学を学んだだけだった。

そして迎えた就職活動期。
生活のための賃金を得るために、何の職業を選ぶか、就くか。
私は、「何をしたいか」より「安定・安心」を重要視した。

希望した会社においてはまだ、4年制大学卒業の女子の賃金待遇に男子学生並みの扱いがなく、私の初任給は、短期大学卒業者の3年目と同等であった。
それでも、私は、そのことに全く異存がなかった。

私にとっての仕事は、その程度の意識のもとでのことだった。

経験した仕事は10種類

勤務した会社は、もちろん安定感も安心感もばっちりだったけれど、私の人生は、その後、少々ハードで、結局、35年間に10種類の仕事に就いた。

① 大手メーカー秘書課勤務(正社員)
➁ 子どもの英語教室講師(業務委託契約)
➂ クルーズ船のパーサー(正社員・船員)
④ クルーズ会社の陸上勤務(正社員)
➄ ウエディングブーケの押し花制作(業務委託契約)
⑥ 小論文添削業(業務委託契約)
➆ 公文教室赤ペン先生(パートタイマー)
⑧ 医院(婦人科・内科・小児科・整形外科)事務&受付(パートタイマー)
⑨ 医院(内科)事務&受付(パートタイマー)
➉ 薬局事務&受付(パートタイマー)

①~④は、独身時代の仕事。
➄~⑧は、幼い年子の娘・息子の育児と高齢の母の看病を1人で背負った
30代半ばから40代前半の仕事。
⑨、➉は、娘と息子が中学生になり、成人し、そして社会人になった
40代半ばから、つい昨年までの仕事だ。

今回ノートに書き出してみるまで、うっかり忘れかけていた仕事もあった。
私は、当時これほどバタバタ感満載の仕事の仕方をしなければいけなかったのだろうか?とつい思ってもしまう。

生活のことを考えたら、少しでも多くの収入は得たいのは当然。
本当ならフルタイムの仕事もできた、かもしれない。
だけれども、私が重んじたのは、
できるだけ、家にいること。

そのため、パートタイマーの仕事を選び、時には掛け持ちもした。
その方が、フルタイムの仕事よりは仕事の時間を調整しやすく、また、仕事内容もその場をこなせばよいだけで、持ち越さずに済むものだったから。

高齢の母の介護は別として、娘と息子にしてみたら(特に思春期以降は)母親の家での存在時間は、それほど重要でなかったかもしれない。
それでも、私は、家にいる時間に拘った。
私は、大切なひとのそばに、少しでも長くいたかったのだ。

私にとっての、はたらくってなんだろう?

母が亡くなり、娘と息子が無事に大学を卒業し、就職したのち、私は、ようやく、私自身のことを考える余裕ができた。

これからの自分をどう生きていくか。
それを考え始めた頃、縁あって夫と出会うことができた。

そして、私たちは、深く意見を交え、結果、どちらも仕事を辞める決断をした。
夫62歳、私58歳の退職である。

そして、私は今、はたらくってなんだろう?に、真っすぐに向き合えるようになった。

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人が使える時間は、最大が24時間。

私は、その時間のうちのできるだけ多くを、
私の愛する大切なひとのために費やしたい。
私ができる限りのことを、そのひとにしたい。

これは、とても大切な私の思いだ。

そして、恐らく大学を卒業する時に、すでに私の内にもあったのだろう。

だが、時代の流れは、そのような思いからは離れていた。
これからの女性は、願わくば男性と同等な仕事をし、社会に貢献できる存在になるべきだ、が主流になりつつあった。

本来の自分は、そうではないことを本当は知っていたのに、私は、長い間そのことをこっそりと卑下し、自分からも隠していたのだ。

「女性が仕事を持つことはどういうことか」を昭和の時代の終わりの頃に真剣に考えていた仲間たちには、恥ずかしくて言えないことがある。

でもどうせなら、吐露してしまおう。

もし大学卒業時に、あるいは、ひとつ目の就職の数年の間にいいご縁に恵まれて、結婚する機会を得ることができたとしたら、私は何の迷いもなく、結婚の道を選んだ。
そして、配偶者に生活するに十分な収入があったとしたら、私は家のなかで、みなを守るはたらきをする。
もし、十分な収入がなかったとしたら、その不足分に相当する賃金をもらえる仕事をする。
ただし、時間はできる限り短時間。
それは譲れない。
その仕事内容は何でもいい。
新しい家族のためならば、どのような仕事であってもできる自信はある。

そして、もうひとつ。
家での主婦としての仕事は、普通はいわゆる家事だろうけれど、そういうことではないんだよなぁ。
家事を完璧にこなすことは、「はたらく」を満たさない。
最も大切なことは、そこにはない。

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私にとっての「はたらく」は、
「賃金を得るための仕事」ではない。
家での「はたらく」は、家事をこなすことだけではない。
「私という人間の全てをさらけ出す」ことだ。

「はたらく」= 自分にとって大切なひとのために、
もっている全ての力を使う

ようやく、そのことに気づけるようになったことを、そのことを正々堂々と認められるようになったことを、私は嬉しく思う。

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昨日、夫にこの私の思いを話した。

夫は、じっくりと耳を傾け、いくつかの考えを話してくれた。

そして、
「はたらくってなんだろう? を考えることは
 しあわせってなんだろう?
 いきるってなんだろう? を考えることだね」と言った。

そうだ。
私にとっては

はたらく = しあわせ = いきる こと。

きっとそういうことだ。

最後に

今回「はたらくってなんだろう?」に出会えたことは、私にとってとても意味のあることだった。
長年、密かに抱えていた、仕事に対する自分の自己嫌悪を自分に真っすぐに向かい合うことで、炙り出すことができた。
そして、何よりも、私にとって、はたらく、ということが何であるのかを知り、何が一番大切なのかを、改めて確認できたことがよかった。

この機会を与えてくださった、パナソニック株式会社とnoteに、心から御礼申し上げます。
ありがとうございました!

     ・・・・・ end ・・・・・

タイトル画像:千畳敷カール 雪の中の朝日が当たる小枝。

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