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声を聴く

「あいうえおnote」の「こ」は「声」。

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先週末、バイオリニスト古澤巌さんの演奏を聴いてきた。

古澤さんのバイオリンは不思議だ。
舞台に立ち、音合わせを軽くしたかと思ったとたん、何の意気込みも、予兆もなく突然演奏が始まる。
その様子は、ふわりと空から舞い降りてきた羽根をすっと手で受けるがごとく、柔らかで自然だ。音楽を奏でようという次元から遥か離れたところで、身も心も旋律とリズムに透過されているかのよう。

そして私は、彼の演奏を耳にしていると、いつの間にかふわぁと心も身体も軽くなり、まるで私自身にも羽根が生えたかのような気持ちになる。

また古澤さんは、その声にも味わいがある。
決して押し付けがましくはない、でもウイットに富んだ内容の語りを織り成すのは、少しだけハスキーで穏やかな彼の声だ。
それは歯切れのよいバイオリンの音色とは初めは違う印象である。でも、ふと、私は思い直す。
この声は、彼の奏でる音と共通の何かがある、と。

ストラディバリウスの演奏がすすみ、音色が心に沁み込んでいくにつれ、曖昧だった私のある思いは明確になっていった。

「古澤さんのバイオリンは、音ではなく、声なのだ」と。

彼の奏でるバイオリンは、単なる音ではない。
それは彼の声。
彼の身体・内臓を通り抜け、
彼の脳裏を駆け巡った気持ちや心をふんだんに含んだ、
穏やかで優しく、でも情熱に満ち溢れた声そのものなのだ。

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私は以前から、地球上にある多くのものが「声」を持っているのだと感じることがある。
それは、鳥や動物や虫などの生き物の声、という意味ではない。

例えば、雨や、雨上がりのアスファルトの表面にある水や、屋根からの雫。
雲や、雲間から覗き始める太陽や、風や、土。

それらから聞こえてくるのは、は単なる音のこともあるけれど、ちょっとそこに気持ちを寄せて、心を開いて耳を澄ませ聴いてみると、それは音ではなく「声」になる。

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剪定した後、水に入れておいたハツユキカズラから出てきた根っこ。
春が近づき、芽吹きはじめたクレマチス。
つい少し前までは固い小さな塊だった、モミジの柔らかな葉。

私が愛でている植物たちの、春に向けての勢いの様。
その健気な、でも驚くほど強い生きる力。

それに心を傾けてみたら、聴こえる、聴こえる、その子たちの小さな声が!
まだまだ小さな春なのに、もう嬉しくてしかたない植物たちの声が!

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楽器を鳴らすだけでなく、心を魂をそこに注いで奏でたら、それは単なる音から声になる。

太陽の光、大洋の波、雨の雫、そよぐ風、生きとし生けるもの、その存在に気づいたときにそこに心を宿してみたら、それらの音も声になる。

自分の生き方を少し丁寧にして、相手に寄りそう時間をつくりだす。
そうすることで、音は声に変わる。
「声を聴く」ことができる。

それに気づいた私。
これからの残りの人生も、そうやって生きていきたい。
「声を聴く」人生を送りたい。

     ・・・・・ end ・・・・・

タイトル画像 : 八丈島・八丈植物園温室のブッソウゲ

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