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修士論文が努力賞はまあ本当。

こんにちは。はじめてのnoteを書いた修士1年目からあっという間に一年が過ぎ、修士の合格通知が来ました。

晴れやかな気持ちかと思うかもしれないが、実際はそうでもない。

この二年、コロナに始まりコロナに終わった。何ならコロナは終わってすらいない。コロナは留年するらしい。さっさと修了してくれ。

振り返って一言いうなれば、コロナあるなしを除いても、この二年、マジもんの地獄を見た。地獄って存在するんだなって思った。この記事は、少し長旅になるかもしれない。有意義な時間よりも、怖いもの見たさが勝るひとだけ、進んでもらいたい。

1.テーマが決まらなかった一年目

1年目から軽く振り返ると、私は1年間テーマが決まらずに彷徨い続けたタイプの院生だ。領域によっては、入学前から概ねテーマや計画書を提出するところもあるだろうが、私の領域はそんなものはだいたい初めのゼミで蹴飛ばされるので入学後に固めていくパターンだった。やりたいことと意志だけはあったが、大きすぎてこの2年という短い期間で(実際には約1年くらい)できることは何なのか、そしてそれを論理的に記述できなかった。いや、できなかったのかすらもはやわからない。ゼミに出しては教授にあれでもない、これでもない、と言われ続け1年経った。そんな感じだ。同期も同じだった。3月、もうデータを取り始めないと間に合わない。そのタイムリミットをきっかけに、急にテーマにGOサインが出る。

そこから研究方法や対象などを約3日で決めた。倫理審査が必要だったので、その締めきりに間に合わせるためだ。でもそんな突貫工事状態のものだったから、その後の活動の中で辻褄が合わなくなるのは当然だった。それでも前に進む以外なかったので、心の中でずっと引っかかりを抱えながら手だけ動かした。

2.データが集まるか不安で眠れなかった二年目の前期

二年生の5月、やっと審査がおりて、データを取り始めた。予備調査から始めたので、本調査が始まったのは7月末だ。やばい。間に合うのだろうか。

テーマがテーマだけに、正直どこまでデータが揃うのか全く分からない。対象が任意に承諾し、協力してもらえることだけを毎日願った。せめて思いが伝わるようにと手書きで何十枚も手紙を書いた。腱鞘炎になるかと思った。この時は本当に、根性だけで研究を進めていたと思う。全くデータが集まらないことを想像しては、なぜこのコロナ禍でそのデータ収集方法を用いたのかなどと未来に問い詰められる妄想が捗って動悸がして眠れなかった。一歩ずつ足場を固めるように人生を進めてきた私にとって、突貫工事で矛盾だらけの物事を、その先の確信が持てぬまま進めていくことが結構苦痛だったのもある。でも、これが私の研究のリアルだった。

幸い、9月ごろにやっとデータが集まりつつあった。感謝してもしきれない。データ一つ一つに土下座したくらいだ。このコロナ禍で毎日生きるのも大変だというのに、自分に直接的な利益が返ってこない研究というものに協力してくれる人たちに敬意と感謝しかなかった。

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3.頑張れなくなった第一波~審査論文提出まで~

やっとこさデータが集まるが、分析方法に頭を悩ませた。私の研究は質的研究で、いくつか確立している方法もあるが、データと対峙してどう分析していくのかを決めていかねばならなかった。それが本当に大変だった。

目的達成と自分の力量と時間。何をどこまでやれるか。研究素人には目測もできない。がむしゃらにやるしかなかったが、出口が見えないものに取り組み続けるのは心が折れそうだった。

12月。もう審査に出すための論文提出が迫ってくる。まだ結果が出ない。提出までの2週間、バイトを投げ捨てて朝から日付を超えるまでラボにこもり続けた。体重が3キロ減った。

自分の力量では妥当性が担保できないと思う部分について教授に相談に行くが「あなたの研究でしょ」と一蹴されて終わる。思考が停止した。もう、自分でも何を作り上げているのか分からない。こんなもん提出していいのか。もはや研究じゃないのではないか。泣きながら手だけ動かして、提出当日の朝、「研究として成り立つだけの材料はそろっているからこれで出せ」と教授に言われる。

引用文献だけは前々から整理していたから大丈夫だったが、全文読み直して体裁を整えるだけの余裕はなかった。というか、寝ていないのでもう字が読めなかった。必要最低限の体裁を整えて、締め切り30分前に提出した。たくさんの提出された論文を見て、たくさんの労力がつぎ込まれた結晶なんだと思った。

提出後、丸2日は本当に何もやらずに過ごした。提出できたという爽快感なんてものは一切なく、とにかく一旦寝られる、プラスの思いはそれだけ。審査通過する気がしないというマイナスの感情と、まだ未完成すぎる論文をこれからどう完成に持っていくのか、見当がつかないまま頭の中でぐるぐると考え、鬱になりかけた(データに向き合わずに考えるから、それは当たり前なのだが向き合う気にもなれなかった)。やっと、提出後3日目に論文を読み返し、誤字脱字文章表現の揺れのオンパレードの紙切れを目の前にし、審査の先生への申し訳なさで消えてなくなりたくなった。何度も読む手を止めそうになったが、とにかく誤字脱字を直さねば先に進めないと自分に喝を入れながら赤を入れた。

優秀な大学院生には想像がつかないかもしれないが、こんなギリギリアウトな大学院生も一定数いるのだ。

4.頑張れなくなった第二波~修論最終発表会まで~

ギリギリアウトな論文を出して、審査にのった。

世の中では、審査にのるという事は半分合格という人もいる。修了させられないと本気で思っていたら、審査に出す前に教授から通告されるからだ。

そんなことを聞いていても、どう考えても論文としてギリギリアウトな代物を提出している自覚があるから、鬱々としながら死刑宣告を覚悟で審査を受けた。

結果、審査の場は、普段拷問みたいなゼミを受けていた私にとっては利益しかなかった。もはや審査の先生が努力を認め何とか修論を通そうとしてくれる優しさがしみて、途中本気で泣きだしそうになった。(この時期あたりから、ある意味感情失禁状態になっていた。)全て研究の益になることしか言われない。求めていたのは、こういう指導だったのかもしれない。

ほんの少し生気を取り戻した審査後、また論文に取り組んだ。指摘事項を整理して、優先事項を教授と共通認識し、取り組んだ。

しかし、また地獄が訪れる。優先事項に取り組んだ結果を提出したら、「その内容はもう自分でやらずにこちらの指導に従え」ときた。「あなたの研究でしょ」と突き放され続けていたことと真逆である。しかも、従えと言いながら具体的な案はやってこない。一体何に従えというのか。

このあたりで、完全に頭がおかしくなった。子どもが同じことをしたのに、その時々の親の感情によって褒められたり叱られたりして精神がおかしくなるのに似てる、と頭がおかしくなりながら考えていた。

あ、もうなんか、これはだめかもしれない。

そう思いながらも、発表会は迫ってくる。この発表会も審査なので、通過しなければ修了は不可能だ。

発表までの1週間、たぶん、ほとんどラボに泊まっていて、シャワーしに家に朝帰る生活をしていたと思うのだが、正直今、記憶がなくなっている。椅子を3つ並べて熟睡できるくらいにラボに飼いならされていたことは覚えている。

最終的に、当日の朝まで自分で作り上げた発表資料を時間内に発表し、質疑応答の時間にも意識を失うことなく参加できた。それだけで、もう自分を許してあげたかった。お疲れ自分。論文がどれだけクソだろうと、地球は回っているのだ。

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5.研究なんてなくても、世界は回るし、修論が努力賞は本当

研究なんてやろうがやらまいが、毎日世界は回っている。人々は息を吸って吐いて生きている。私一人の研究がとん挫したところで、世界にはなにも影響を与えない。きっとちりつもの1ちりが消えたくらいだ。

教授に言わせれば高等遊民のたしなみ。

なのに、前述したように、(少なくとも私にとっては)修士の研究生活は結構な地獄だ。こちらがどれだけ一生懸命取り組み、命を削って作り上げた記述やモデルであっても、ゼミで褒められたことなんてほとんどない。褒められることは実際研究上の目的でも何でもないし、そう言い聞かせるが、でも承認欲求は大人だって少なからず持っている。人間だもの。

成果物は自分の分身ではない、自分が否定されているわけではない、といくら念じても、教授の言葉はダイレクトに心臓にぶっささる。

何を言われても研究を良くすることだけを考えて素直に受け入れることはできたが、さすがに人格否定をされる発言には私の中の何かが切れてしまった(具体的には書かないが)。教授の学術的な思考には心から尊敬をしていたから、人間的な部分で失望したことにもショックだった(そんなものは、私の勝手なのだが)。

これまで、どんなに困難なことでも目の前のことに真摯に取り組んでさえいれば、結果はどんな形であれ一応ついてくる、あるいは届く人がいるんだという信念で人生を送って来た。でもこの研究活動ではその理論が通じなかったのが一番きつかった。

それに当たり前だが論文を何らかの形で公表するまでの二年+α、修論活動に限っては、ぶっちゃけ誰の役にも立てないものだ。修論を書きながら論文を公表するようなスーパーマンでなければ(領域や分野によっては、どんどん出しているところもあるだろうが)。

そして、大学院生は経済的にもしんどい。経済的余裕がないと何事にも余裕がなくなるというのは本当だ。私は社会人をしてから院生になったが、貯金は前年の税金や入学金や授業料や毎月の生活費ですごいスピードで消えていった。授業料免除を活用したりしても、院生をしながらでは週二回働くのがやっとこさという感じだったので、二年目は親から支援を受けて生活した。社会人で自立した生活からまた親にお世話になるのは、正直申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

なんとかこの時期までこぎつけたのは、そんな親への感謝、研究対象への感謝と責任、そして同期の存在があったからだと思っている。コロナ禍で飲みにも行けなかったけど、ラボでしらふでも大笑いできる同期の存在は本当に力になったし、この同期でなかったらいつ失踪していたか。

自分で選んだ道だから。そう言い聞かせるだけでは、やっていけないリアル。何度心が折れたかわからない。というか、今でも折れていて、ある意味トラウマ体験になっている。

それでも、前述の事項だけを命綱にして、なんとか合格通知までたどり着いた。実際には「努力してもどうにもならないものはどうにもならない」のが現実なのだが、少なくとも”修論の審査”という場に限っては、努力を認めて何とか通そうとしてくれたことを思うと、そういう意味で修論は努力賞は本当だと思う。

これから修論を書き上げる人たちがいるかもしれない。もし、最大限努力していてもゼミがどうしようもなくきついと思っていたら、十中八九あなたの技量や認識がおかしいのではなく、求められているものが高いか指導教員に責任があると思っていいと言いたい。自分を責めると(私みたいに)、心と頭が崩れていきます。体も。限界が来る前に、なんとなく、の論文で良いと思ってほしい。修士なのだから。「修める」ことが本業の身分なのだから。そうして、心身健やかに修了しよう。




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