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気付いたら家族、みたいな感じの父娘 その4

今時それほど特殊でもないけれども、少しだけ、世の中の定型とは違う「再婚した父と家族になる」という経験をしたことについて、書き残しておきたいと思います。

じゃあ、別々にいこう。

私たちは父も含めて家族全員がB型。だからと決めつけるわけではないけれど、B型で想像する性格の例にもれず、私たちは全員、本来とてもマイペースです。対外的に空気を読んであたかも協調性があるように振る舞えても、家族にまでそれをしていたら疲れてしまう、と全員が思っていると思います。

ただ、私たちは最初から血がつながっている家族ではないから、それができるようになるまで時間を要しました。

まずは夫婦間。
最初は気を遣っている様子だった母ですが、夫婦での意見のズレからくる言い合いは少しずつ始まっていきました。

たとえば。

父と母はよく夜のトイレの便座の温度でケンカをします。父は電気代の無駄だから常に夜に便座を温めるのは無駄だと主張して勝手に切ってしまいます。母は夜トイレに行って冷たい便座に座ると冷たくて悲鳴をあげそうになるから便座は常に温めておきたいと訴え、いつも便座のスイッチを入れなおします。(私は夜に起きないからどっちでもいい)

おそらく5,6年はこのネタで攻防戦が繰り広げられていて、もはやこのケンカが始まると「冬だなー」とすら思うようになりました。さながら冬の風物詩です。

その昔、血がつながっていた父と暮らしていた頃、私が1度だけ見たケンカは、離婚する直前のことでした。シリアスな空気の中、母は涙ぐみながら何かを叫んでいて、私はその情景にとてもショックを受けました。

その時の強烈な印象もあって、ケンカをしたら関係の終わり、くらいに思っていたけれど、今の父と母は激しい口論になっても、ごはんを食べたらケロリとしています。言いたいことを言いあって、それでもなお続く関係もあるんだ、と2人をみていたら思えるようになりました。

私はケンカが苦手です。父とケンカしたことも1度もありません。ただ、やりたくないことがあったら、やりたくない、とは言えるようになりました。

ようやくそれができるようになってきたなと思ったのが再婚してしばらくして行った旅行のことです。

家族全員でとある観光施設に行った後、ホテルにどう帰るかで意見が対立しました。

ホテルまで歩いて30分ほど。バスなら10分弱ですが、20分待たないといけませんでした。そのうえ、バスを待つ人は他にもたくさんいて、きっと座ることもできません。

「緑が多くて散歩して気持ちいい道じゃない?歩いて帰ろうよ」

「もう1日歩き回って疲れたからバスがいい」

「バスに乗っても座れないし、なんなら歩いたほうが早く着く可能性あるよ」

「いや結局バスのほうが効率よく早く帰れるよ」

歩いて帰りたい派の母と私、バスで帰りたい派の父と弟。一歩も譲りません。

「じゃあ、別々にいこう」

「いいよ、競争だね」

「走るのはダメだよ」

結局、別々に帰ることが決定。この競争の結果は覚えていないけれど、確かほぼ同着だったかと思います。
実に私たちらしいエピソードなのではないかと思います。

こんなことが気付けば日常茶飯事になっていました。

親しき仲にも礼儀あり、ですし不要なケンカは避けたいけれど、気を遣わなくても壊れない関係って尊いことだと家族関係が深まる中で思うようになりました。

将来のことを考えて、もう1度選んでみたらどうだろう

高校3年の2月。

「話があるんだけど、いいかな?」

夕飯を食べた後、両親が私をリビングに呼び出し、改まって言いました。
自身の思い上がりに気付き、衝撃を受けたのがこの夜のことでした。

少しだけ時を遡ります。

私は教育費のかかる娘でした。

なぜなら、日本トップの国立大を目指していたからです。
国語数学英語世界史地理とみっちり塾に通い、参考書を5教科8科目分たくさん購入していました。

いざ受験が直近にせまり、難関の私大も3大学6学部ほど出願。受験料だけでもけっこうなお金がかかります。

申し訳ない気持ちはあったけれど、「合格実績」は受けないことにはつくれません。第一志望だけでなく、いいところに複数受からなければ、これまで教育費を出した両親は報われないから、出さざるを得ないだろうとも思っていました。

結果、私は第一志望の国立大学には手が届かず不合格。

浪人するなんて選択肢は経済的にも、早く自分で稼げるようになりたいという私の気持ち的にもありえないことでした。

受かった私立大学の中で、1番偏差値の高いところをおさえとして、入学金を払ってもらえるようにあらかじめお願いしていました。それはとある私大の法学部でした。

第一志望に落ちた私は、自動的にそこに行くことになるんだろうと、投げやりな気持ちで考えていました。

そんな夜に「話がある」と声をかけられたのです。

「実は第三志望だったK大学文学部にも入学金を振り込んでるんだ。」

父はおもむろに話し出しました。

「大学は偏差値じゃない。勉強したいことが勉強できるかのほうが大事だ。それに学部自体の偏差値よりもどの大学を出たかの方が将来重要になる。
せっかくがんばって勉強して受かったんだから、どちらに行きたいか、もう一度冷静に考えて選んでみたらどうだろう?」

大学は受かっても、入学金を支払って手続きをしないと入学する権利は得られません。私大の入学金は数十万かかるのが当たり前。もし行かない場合、その入学金は返金されません。無駄になるのです。
その入学金を、2つ分、しかもそのうち1つを、私には内緒で払っていてくれたという話でした。

信じられない。父にとって何のメリットもないことなのに。

私は感謝よりも先に、驚きで言葉を失いました。

そして、進学先に選択肢があるんだ、と思ったら、少し前向きな感情が沸き上がってきました。

医学部や法学部を目指す同級生が多く、第一志望に落ちたら当然浪人、みたいな空気がありました。法学部のほうが偏差値が高いし、格好がつくからそれでいいかなって思っていたけれど、浪人しないのは妥協なのか、逃げなのか、という気持ちや、法律なんて全然興味ないのに法学部に進んでいいのか、という気持ちなど、いまいち現状に納得できていない自分に改めて気付かされました。

「ありがとうございます。考えてみます。」

うまく言葉を返すことができなかったけれど、私はこの日ほど父に感謝したことはないと、今振り返って思います。大事なのはお金じゃない、でもそのお金をどういう思いで使ってくれたのかは心に響きます。

私は結局、当初第三志望だと考えていた文学部に進学し、そこでコミュニケーション学を専攻し、PRの道に進んでいきます。

どこにいっても結局は後悔なくやっていけたのかもしれないけれど、選択肢の中から自分がどうしたいかを考えられたことも含め、今の私があるのは、父のその時の行動によるところが大きいと思います。

母を大切にするのは、母のことが好きなんだし、結婚もしたんだからそうだよね、と思っていたけれど、私に対しても同じように愛をもって接してくれていたんだな、守られていたんだなと思いました。

私は受験生としての1年、追い詰められてぴりぴりしていたし、家族を配慮するような行動をほとんど何もできていませんでした。

勉強に打ち込めたこと、好きな大学に進学できること、すべては両親の支えあってのことだとわかってはいたけれど、本当にはわかってなかったなと、自身の思い上がりにはっとさせられた夜でした。

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