(10/20日記)”変化球”に逃げ出すお年頃。小手先のテクニックに逃げるな

若い世代がやってくる。"若気の至り"とも呼べる、乱暴なほどにパワフルな力で場を魅了したり、迷惑かけたりなどする。

かつてそうだった者たちは、「そのままではいかんな」と、だんだん大人しくしなっていく。

「でも、大人しくしているだけでは生きていけないだろうから」と、なにか、効率的で、エコな運用へと切り替えたがる。

それではダメなのだ。実は、そうしているうちに、みるみる失っていくものがある。下手な小手先では、身動きが取れなくなっていく。疲れやすくなる。

おそらく、どんなジャンルにおいても、一定期間の継続した「慣れ」を経て、ラクをするための"逃げ道"を見出すようになる。

変化球に頼るにはまだ早い。というよりも、直球が頼りにならないからと、直球をおろそかにしてはいけないのだと、最近はよく思う。

「慣れ」から来る下手な手抜き

「手を抜く」というのは大切である。余計な力をいれずに、パフォーマンスを高める効果がある。何より、心身が長持ちする。

このまま走っていられないからと、手を抜くようになる。それは「慣れ」から来るもので、「手を抜こう」と試みること自体、おそらく正しい取り組みだと思う。

ただ、「手を抜く」にも技術が必要で、小手先ではいけない。そもそも、「手を抜く」という表現が、「小手先を抜くこと」を意味している。

一定期間の取り組みの中で、監視者や師のような存在がいない限り、人は簡単にラクをする。できたつもりでいて、全くできていないことなどが、ザラにある。

年齢的な相場にとらわれて、見栄を張るようになってしまう。「大体このあたりかな?」と、天井を設定してしまうようになる。

そうしていると、どうにもうまくいかないことが生じてくる。少し前までは長時間に渡って取り組めていたことが、全く手につかないようになってくる。これではいけない。

そうして小手先のテクニックにすがり付くようになる。基礎的な体力と気力は落ちていき、いつか身動きが取れない岩となる。それは固体化で、つまり死の友人である。

生涯かけて"直球"を磨くこと

小学生が参加する少年野球では、変化球を投げることを禁止していることが多い。身体、特に肩や肘への負担を考えて、直球だけを投げさせているのだ。

中学生になると「変化球を投げてもいいよ」と言われるから、まずはカーブの練習をする。どれだけ曲がるだとか、落ちるだとか、そういうことが楽しくて、一生懸命に友人と張り合ったり、ふざけたりして、体得していく。

そんな変化球があまりにも面白いから、さまざまな球種に手を出して、肩や肘をいわせてしまうか、本番の投手としては使い物にならない、バッティングピッチャーで選手生命を終わらせてしまう人が、中にはいる。

あまり、良いとは言えない。変化球とは、冴えたストレートがあるから効き目を発揮するのであって、それだけではなかなか、うまくいかない。簡単に攻略されてしまう。

だから、直球を磨き続けなければいけない。以前のように、球速が出なくなったからと、極端に捨て去っていてはいけない。直球とはつまり、基礎行動なのである。基礎というのは、常に取り組まなければならない"土台"といえる。

自分にとっての"直球"とは

歳をとるとおそらく、"直球"について、わざわざ失念するようになる。理由としては簡単で、面倒だからだ。意識の外に追いやってしまいがちである。

基礎や土台に取り組むことは、極めて地味な作業であり、刺激に溺れた心身は、「そんなのいらないよ」と、無視するようになる。

"直球"とは概ね、気力と体力を要するものだと思う。書き続けること、座り続けること、走り続けること、鳴らし続けること、そんな取り組みを積み重ね、土台が培われれる。

これは、"小手先"とは真反対に、ラクではないことである。おそらく、本来の「手を抜く」という言葉の意味合いには、"気合いを入れる"の意味合いが含まれている。気合いがなければ、手を抜くことができない。脱力には、気合いが必要である。

だから、逃げては通れない道が、必ずどんなところにもある。"歩く"を放棄して、山を登ることはできない。いつまでも見つからないロープウェイをじっとしながら探すのは、時間の無駄である。動きながら探したほうが、見つかる確率もグンと上がる。山登りにおいて、"歩く"は前提条件とも言える。

自分の取り組みに対して、基礎行動を明確に捉えることは、改めて重要だと感じる。

そういうことを、歳をとるうちに、経歴を伸ばしてくるうちに、どこかで忘れてしまうようである。

変化球がもたらす揺れ方に神頼みではいけないし、直球を磨くことを怠ってはいけない。

確かに時期によって、取り組み方のバランスは変わるだろう。それでも、土台について、基礎について、よく考えてみることが、自分にとって重要なんだと気がついた。その一つとして、こういった文字を書き続けることは、思考の土台、活動の土台を、形成していく実感がある。

まとめ

選手生命を長くするために、若さのままに、乱暴なパワフルさを維持しようねと、そういう話ではない。

確かに球速は落ちてきたかもしれないけれど、それは取り組まなくて良い理由にはならないのだ。

基礎は、いつまで基礎であるから、基礎なのだ。

よく食べて、よく寝て、よく動くことが、"生きる"の基礎であるように、取り組む物事には必ず基礎がある。

どこまで逃げても逃げられないもの、ラクのしようがないもの、地味で、面倒くさいもの、大切だと知っているのに、思わず目を逸らしたくなるようなもの、そういったものが「基礎」であるから、日常的な活動・行動のデッキから、絶対に外してはならないカードである。

間違った手の抜き方で、ラクばかりしていてはいけない。これは自戒だ。手を抜くというのは、奥が深いから、まだまだ難しさを感じている。

本当の意味で手が抜けたとき、今以上に高い生産性は生まれてくるはずだと、そういう理解に至ったんですよ。

ウイスキー飲みます🥃