(11/3日記)みんな" y = ax "。自分にも他人にもちょっと優しくできる話

人は誰でも" y = ax "だ。これはまったく難しい話ではなく、むしろ極めてシンプル、あまりにシンプルすぎる話である。

“y”は「出力」、”x”は「入力」、係数”a”は「"今ここ"への強い実感」である。

刺激・情報を得て、刺激・情報を吐き出している。それが我々の表現の全てである。


タモリさんのインタビュー

いつしかタモリさんが「いいとも」を終えた直後のインタビューで、「自分はちっぽけ」「ペラッペラのティッシュみたいなもの」と言っていたのがとても印象的だった。

「まさかまさか、そんなご謙遜をw」と人は言う。もっとタモリさんを信頼して「きっとそうなんでしょうね!」と言ってみてはどうだろうか。

人が人であること、世界の中に組み込まれた構造、システム、その都合はシンプルで、「出て、入って」をするだけの装置と言ってしまえば、少し寂しいだろうか。

個人的にはむしろ、そういったことを理解することで、あんまり身勝手な傲慢さに振り回されることもなくなるんではないかと考えている。

人はそもそもペラッペラ

昨夜は変な夢を見た。自分が生まれてから、誰も名前をつけてくれない。そんな自分は、何を"自分"とするのか、全く考えもせず、なにもわからないまま漂うという、そんな夢だ。

その影響を何から受けたのかといえば、起きた途端に合点がいった。友人に勧められてみたアニメ「不滅のあなたへ」の影響である。観てない方はぜひ観てみてほしい。Amazon prime ビデオでたしか観た。

人は、生きていく中でアイデンティティを”獲得”していく。

生まれた時に名前をもらい、誰の子なのか、いずれわかってきたりだとか、国籍や言葉の意味合いを理解、獲得する。それを極端に示したのが「不滅のあなたへ」だと、ぼくはそう思った。

そもそも、存在の全てが無色透明で、意味合いや関係性から”色”をつけることで、実体化している。意味合いや関係性が認められるから、”色”として現れる。これは縁起の理解である。

だから、人生のそもそも、存在のそもそもについて、よく考えたほうがいいと感じた。「不滅のあなたへ」の主人公同様に、我々も単なる"球"でしかなかったし、いまだにその根本は、いつでも”球”なのである。

なぜ"自分"を感じるのだろか。それは、刺激の出たり入ったりを繰り返すことで獲得した関係性、つまり”色”を持ち合わせているからだ。

全てを落としてしまえば我々はみな"球"であるし、"ペラッペラなティッシュ"だと思うのだ。

そう考えるとタモリさんのティッシュ発言は、謙虚というよりも深い理解。まざまざとした「そうでしかない」という肌感覚。「だってそうでしょ?」と言わんばかりの、確信そのものだと感じるのだ。

自己分析の罠

あまり"自分"について、ごちゃごちゃと考えない方がいいという実感が強くなった。

近年では、"自己分析"とした称した、「自意識を無闇に高める罠」が市場に溢れている。発行元の意図などは知らない。

“自分”について考えるほどに、後から余計なものを付け足したがる。

分析は、細かくしたり、砕いたりするならよいのだけれど、増えたり、汚れを増やしてしまっては、見えるはずのものも、見えなくなる。

自己分析・自己理解のそれ自体にきっと悪はない。アクセサリーか何かのように、上からつけたして重たそうにしてると都合が悪い。

気に入れば付けていればいいのだが、本当にそれが求めた姿かと言えば、かなり怪しい。

人は " y = ax "

人は、”y = ax”である。入れたものを、再統合して、時間差か、瞬時に出しているに過ぎない。それくらいにシンプルなものとして、一度捉えてみるのはどうだろう。食事を摂って排泄するように、息を吸って吐くように、である。

情報を再統合するパターンがある。これまで培ってきた、慣れた思考の回路が発達しているから、作り慣れた”色”を塗る筋力、クセのようなものがついている。これがいわゆる、アイデンティティと呼ばれるものだ。

だから、入れるものによって、”自分”から出てくる表現はまるきり変わってしまう。日本人から生まれた子でも、アフリカで一生暮らせばすっかりアフリカの人だろう。

それくらいに、”自分”というのは本来、無色透明で、スッキリとした器なのだ。自分ががあるとかないとか考えて、迷ってしまってはキリがない。ずっとあるし、ないとも言える。

そもそもは無色透明で、どんな刺激を受けて、どんな色合いを生み出すようになったのか。それこそが自己分析、自己理解の効用だ。

良いとか、悪いとかは一切ない。どこかの場所で、五感のどれかから入れてきたものが、言葉になって、行動になって、表情になって、思考になったに過ぎないから、善人も悪人も、そんな人などはいない。

係数”a”が、その人らしさ

例えばぼくは、パチンコや競馬など、ギャンブルの類に現状、それほどの興味が湧いていない。

強い刺激”x”を得たところで、係数”a”があまり大きな数値でないから、出力”y”は、さほど出てこない。

変わって、ウイスキーのことならば、係数”a”が大きいから、酒が少し舌先に触れるだけで、発見すること、言葉にすること、思うことがたくさん浮かぶ。こういったことが起こる。

その人の興味は、何か重要だと確信しているものにほど、大きな”a”を発揮している。全く逆に、a = 0 となれば、それは無気力を示している。

そんな係数aは、対象への集中力、今という瞬間を、どこまで強く感じて、それを見ているかで変わってくる。「勢いがある人」というのは、係数aが大きな値であると理解する。傾きが大きく、パワフルな出力が可能なのだ。

そう考えてみると、「なぜあの人は、あんなにも頑張れるのだ?」とか、「なぜ私は、動けないのだ?」という問いに対するヒントが、少しばかりわかってくる。要は、今ここに集中しているか、否かだ。

だけれどそんな人でも、なんでもかんでも大きな係数”a”を発揮しているわけではない。平均的に数値が高くとも、対象によってデコボコとするものである。

(まとめ)「人はシンプル」だと知れば、きっと優しくできる

それくらい単純なのだと理解することが大切なように思う。ごちゃごちゃさせて、恨んだり、苦しんでいる人を多く見る。

その苦悩の渦中にいて、「もっとシンプルな話ですよ」と外野から伝えるには、少々思いやりに欠ける。

だけど、そうなのである。「不滅のあなたへ」のフシのように、一息目を吸い込む前から、「出て、入って」の、その循環は始まっていた。それを繰り返して、今に至るのがぼくらである。

そう考えてみると、善人や悪人というのは、持ち合わせたり、クセで採用した”色”のことだとわかってくる。だから、人を恨んでも意味がない。人についた色を嫌っているに過ぎない。

自分自身に対しても、そう良いとか悪いとか、あまり考えなくたって良いと思う。

気に食わない色ならば、一度落として、もう一度塗り直せばそれでいい。それができたなら、トラウマなんてものにも振り回されない。そしてそれは、必ずできる。

「あぁ、こんな汚れがついていたか」と、さっぱりとした冷静な頭で、時間をかけて落とせたならそれでいい。他人も然り、自分も然りである。

そのシンプルさを肌感覚まで理解して、「お互いにペラペラなんだからさ」と、すっきり付き合っていけたならば、人間関係などは清らかにやっていけるんだろうなと、今は感じている。

ウイスキー飲みます🥃