(10/4日記)「意味なんてない人生」に意味を見出すコツ
人生に意味なんてない。最近になってより一層にその想いが、感覚が、強くなっている。
これまで死んできた、親愛なる生きとし生けるものたちに聞いてみたい。「人生に意味はありましたか?」
まだまだ死ぬ予定もなかったのに、ポックリといなくなってしまったもの死に目に出会うたび、その無意味さ、虚しさを痛感する。
まずはこの大前提を、受け入れるべきだなと思った。ポジティブ、ネガティブとか、そういった反応的な話ではない。すなわちこれは、理解だ。
そしてその上に、自らが意味を創り上げていくんだ。今はそんなふうな、希望と祈りを思っている。
人生に"意味"を探す人
人生に意味を探してきた時期がある。そんなことしても、見つからなかった。
そもそも「意味」は、誰かがそうと役割を与えたもの、「そういうことにしましょうね」という共通了解のもと、定められるものだ。
それだから、外側に探しに行こうとすれば、誰かが定めた"意味"を飲み込む羽目になる。それもまた、別に悪いことではない。
だけど、探している人というのはきっと、何かしら、ぼんやりとした理想像だけはあって、唯一絶対の答え、神のような存在を探している。
「完璧なリンゴ」がこの世にはないように、完璧な答えなんてものはこの世にない。
「これだ!」と思ったものも、やっぱりどこかが、何かが違う。それは、自分自身の理想像、それ自体が日々変化していることも考えられる。
人生に意味がないと、まず受け入れる
「意味がない」と受け入れることが、何より大切だと思う。
意味というのは作るもの、作られたものであるから、そういったアクションがなければ、意味なんて生まれようがない。
だから、自分で創るしかない。完璧でなかっとしても、少しづつ理想の形へと、近づいていくしかやりようがない。
意味というのは、変化する。時代の中で、自分が今いる立ち位置から、日々移り変わってしまうようなものでもある。それくらいに意識は柔らかく、意味は淡いのだ。
意味があると思い込むのもまた、危険である。それ以外の可能性が見えなくなったり、手段を選ばないやり方になってしまったりする。
意味なんて、あったら便利なものだけど、なければないで困りもしないものだと実感する。
便利な意味を、自ら創る。それは東京タワーを建てるならば設計図があったら便利であるというような、それくらいのことである。設計図を作ることが未来を創り、それすなわち意味を生み出す。
まとめ
「人生の意味のなさ」に落胆して、卑下するような物言いの人に出会うことがある。でもそういう人に言ってやりたい。「そういうもんだよ」と。
その上で、である。「その上で、じゃあ何しよっか?」と、そういう相談なのだ。
こういうことを端的に、ポジティブだとかネガティブだとかいう人がいるけれど、そういう乱暴な話でもない。理解に、反応の大きな感情はいらない。もっとニュートラルで、フラットなものだ。「あぁ心地よいなぁ」それくらいがちょうどいい。
「人生に意味を持つ」ということは、未来の設計図を書くことだ。
そのためには立ち止まらずに、歩みを進めなければならない。なるだけ多くの景色を、目に焼き付けなければいけない。疲れてしまうなら、全力疾走でなくていい。散歩程度がちょうどいい。
その中で自然と湧き上がってくるイメージを、より鮮明にしていけたらそれでいい。ただ、立ち止まったままではいけない。そうして見えてくるのが「人生の意味」だ。
これは決して特別なことじゃない。夜ご飯を決めること、くらいに思ったらいい。
それを決めたら手段は後から見えてくる。歩みを止めなければ、必ずどこかにでるはずだ。今はそういった、何かしらの確信がある。
ウイスキー飲みます🥃