(10/6日記)やり残した"あいまいな酒場"。バーから逃げてきた話。明確なリベンジ。

2021年12月31日。たくさんの思い出があった"あいまいな酒場"を閉店した。自分の実力ではやりくりできず、辞めることになった。
 
自分の中では「"バー"は完了した」と、そう思っていた。諦めと満足。もういいやと思っていた。だがそれは間違いだった。

気づかぬうちに視界の外に追いやって、「もうそうゆうの、経験したからさ」「そんなのはとっくに知ってるよ」と思っていたのだけれど、本音が全くそうとはいっていない。

弔えていない。燻ったまま、未完了のまま、腐らせている。やり残したこと、満足いくまで到達すること。始めた時に描いた理想からは遠いまま、不時着することとなった。

そういった”未練”について、親友と話しているうちに、盲点になっていたことに気づいたのである。


"悪い記憶"だけがこびり付いたまま

人の記憶はいい加減で、楽しかったこと以上に、辛かった記憶を強く思い出させる。

思い返せば本当に楽しくて、ワクワクしていたように思う。未来について、多くのアイデアを出した記憶もある。

それがコロナということも相まって、強い逆風を受けていたのも確かで、だとしても、店舗そのもののやりようはいくらでもあった。そういうことに、"未練" がある。

カウンターの中というのは独特で、何かしらのプレッシャーがそこにはある。客席に3〜5人も並んでしまえば、檻の中にいる自分が、まるで品定めされているような感覚に陥る。

確かにそういったケースはあったけれど、9割以上、そんなことはない。純粋に会話を、お酒を、楽しみに来てくれるような人ばかりで、大変に愛されていた。

そんな9割の記憶が、ごっそりと抜けて落ちてしまっていたんだと思う。残っているのは1割の記憶。それがあまりにビビットな映像として焼きついている。

酒場で出会ったことで、今にまでつながる人はかなり多い。本当は、良いことなんてたくさんあった。

ショックは大きく、何度でも鮮明に蘇る

おそらく、傷ついていたんだと思う。

ただ店を閉めるということ以上に、父の死、人への不信感、資本主義の煩わしさ、そういったこと全部まとめて"悪夢"にして、覚めず囚われていたと感じる。

友人は優しいから「本当に辞めてよかったね」と言ってくれた。それは、本当に辞めて良かったのだと思う。奇形のフォームをしながら、ひいひい言って走っているさまが、よく伝わっていた。

大きなショックの一つに、父の死はやはりある。これまで面倒と心配をたくさんかけてきたから、「ほら、こんな形で息子は成長してますよ」と、早く見せてやりたかった。

大学を中退してからというもの、正社員でもなく会社で働いていたり、そこそこの立場になったら突然辞めて、半年も海外で極貧旅をしてしまうようなのら息子。

20代になってからした突飛な選択は、全て親に相談することはなかった。報告もなし、ただただSNSに上げた情報を親が見ていたことで、「それでいいか」としていた。

だから「こんな生き方してきましたけども、それでもこうした形になるんですよ!」と、親に一つ、安心させてやりたかった。それが叶わず、きつかった。

やっとこさ両親に、何かしらの形を見せてやれる、そう思って始められたのが、重い腰を上げる確かな動機だった。

だからこそ強いショックだった。まさかそんなにも急に死ぬのかと、その期待と絶望の落差の分で、ちゃんとやられてしまったんだと、今はそう思う。

楽しかったはずの"あいまいな酒場"

今思い返して見ても、苦い記憶は強く現れる。今となっては多少の美味で、とはいえまだまだ、エグさもある。

あんなにも苦しい味を、味わいたくないと思ってきた。無意識で、視界の外へと追いやった。思い出したくないからか、飲み屋にも行きたいと思わなくなった。

ただ、ふと写真を見返せば、それなりに楽しそうにしているから不思議である。「そうか、キツイことだけじゃなかったかもな」と、蘇らせるヒントになった。

確かに人に愛されていたし、愛してもいた。だがどこかでそれが、歪んだ記憶として収納されるようになった。悪夢を見るようになった。

良かったことも、悪かったことも、今となれば全部がいい思い出と、そうしなければならない。自分のために、美味しくいただかなくてはならない。

「まぁ、そういうこともあるよね」と、軽やかに乗り越えていかなければならない。そうでなければ、埒が明かない。あれから2年か3年近くが経つけれど、今やっと、心底、本当にそう思う。

良かったことを思い出すには、良かったことのヒントになるような実践、手足を動かす経験を、重ねなければならない。だから、いつまでも人の前に出ずに、引きこもっていてはいけないなぁと、最近は強く感じている。

"バー"から逃げることはできない

「さぁこれからまた、ウイスキーをやって行くぞ!」となった時、何度考えたとしても、人前に出ることは避けられないことを、よく理解した。

ウイスキー、お酒というものは、人が飲むものだ。当たり前だけれど、その当たり前を受け入れるのに時間がかかった。

人から逃れることはできない。社会から逃れることはできない。そして、バーから、逃れることはできない。

実のところ、逃れることはできる。1年以上そうしてきて、その安心感を覚えた。その上で、「逃れることはできない」とした。それをアイデンティティにして「根本から変わりたいんだ」と、強く願った。

その一つの実践として、2023年になってから、毎日紙に文字を書き続ける生活をしていた。

「いけるかなぁ」と思ったならば、SNSに顔を出し、色々表現をしてみたりなどした。そして人前に出て、酒を出すことなどをし始めてみた。

これはどう考えてもリハビリだ。傷を負わなければ簡単にできたあれやこれを、もう一度できるようにするために、以前のようにはいかない。手数は確実に増えている。

それが"克服"ということなのだろう。それから逃げているままでは、埒が明かない。自分の今とこれからのために、変化し、進化しないと、もう気が済まない。

そう思って、少しずつ、前進したり後退したりを繰り返しているところなのだ。

以前とは違った景色が、今は見えている。決していいことばかりでないかもしれないけれど、それを含めた"味"がある。これを受け入れたのであれば、さらに遠くに行けるのではないだろうか。

小川町のスタジオでバーを開業。明確なリベンジ。

今は「かみな」にて出張バーをやらせてもらっている。東京に行く機会もめっきり減ってしまったから、そんなきっかけをもらえてありがたい。とても楽しくやれている。

それと同時に、小川町にあるウイスキーも、ちゃんと人に喜ばれてもらうために、現在ヒサノくんのスタジオ自体も飲食店として、再度バーとしての経営をやっていこうと、そういう話になった。

これはリベンジである。コロナを含めたら3年ほど、動けず立ち止まった空白から、もっと大きく飛躍するために訪れた、または、友人と共にじっと待ち続けてくれた、好機だ。

あんまりウジウジしていると、支えてくれてる人たちも、家族も、死んだ父も悲しむだろう。

今あるものを見返せば、随分と武器は揃ってるじゃないかと、そう思った。寸止めのまま何かを満たし、最後の最後で踏ん切りがつかないままでいた。そろそろ覚悟する頃だろう。

もう一度、新しい文化を創造する。やり切らなければ、後悔をする。チャンスは随分と待ってくれていたが、いつまでも待ってくれるわけではない。

人にお酒を薦めること、人と一緒にお酒を飲むことからは逃れられない。それならば、存分に楽しい方がいい。楽しくないこともひっくるめて、楽しくしてしまえばそれで仕舞いだ。

人といることで、ウイスキーの理解が進む。1人で飲んでいるだけではいけない。世界は広いから、その広さを知らなければならない。

「ぜひ一緒にお酒を飲んで、楽しくやりましょう!」と、今はそう思っているんです。

まとめ

小川町の開業については、徐々に実現して行きたい。東京に顔を出して、いろんな人のことを理解していきたい。

おそらく会う人会う人に、そういったことを話すかもしれない。意見をぜひ聞かせて欲しい。そして、気軽に声をかけてほしい。

どうにもこうにも、人に会わずにやっていくには、少しばかり早すぎた。まだまだ知らないことばかりなんだから、世界や社会や人について、勝手に決めつけていてはいけないんだなと、そう確信した。

創造と破滅を繰り返して「何度も人に迷惑をかけてきたから、これからだってそんなこともあるんだろうな」と考えると、少し怖くなる。それでも何度でも、やり直す他に道はない。

優しくしてくれる人には本当に感謝している。支えてもらってばかりである。

「どうしたら、喜んでもらえるだろう?」。今はそういうことを考えるのが、人生の深い喜びとして実感できつつあり、素朴にそれが嬉しいのだ。

ウイスキー飲みます🥃