(10/7日記) 深夜酒場の夢。自然に帰る大人たち
今日はかみな秋葉原店での2回目の営業だった。来てくださった皆様、本当にありがとう!
なんだかんだ人と会っているのは楽しく、久しぶりな人もいれば、初めての人もいるし、知っていたけれど、初めて話し込んでみたりする人もあった。
人とは話してみなければ、対人しなければ、同じ空間を共有しなければ、わからないことがたくさんある。
完璧な理解などはできないけれど、ほんの少しだけでも、その人を理解できたなら、それは嬉しい。世界がまた一つ、大きくなる。
そういうことから、"深夜"というまとまった時間の特別さに少し、気づいたことがある。
"深夜"という時間の特別さ。深夜酒場の夢
大人になってから人と親密な関係性を、新たに築いていくのはなかなかに難しい。
学生の頃などは、さまざまなことで体験を共有していた。半強制的に、誰かとコミュニケーションを取ることがあって、そうして友人を得る。
大人になると、職場以外でそういった関係性を築くのは、難しい。何より社会性が身につき、バカをしなくなるから、うちに秘めたものを外に出す機会もだんだんと減ってしまう。
だから酒を飲んで、歌って、バカになれる"深夜"という時間は、社会に在る大人にとって素晴らしく開放的な楽園なのだと、そう思った。
それとは反対に、深夜とは、とても閉鎖的である。1人でいれば孤独を感じるほどに世界は小さく感じるし、数人でいれば、何か密室のような場所が世界の全てであり、隠し事を共有するような、そういった機会が訪れることも多い。
そんな時間を3時間、6時間とともに過ごせば、たいてい誰でもボロが出るわけで、それが人としての愛嬌であり、個性であり、信頼できる"自然"として伝わってくる。
よく話し込んでみると、「そういう考え方だったんですね!」と、その人の価値観にヒットする瞬間があるから、話をすることはとても楽しい。音と音にハーモニーが生まれる。
そして、変わり続ける。人は変わるから、何度同じ場所で、同じ人と出会っても、新たな発見がある。深夜という時間は、そんな面白さに触れる、いい機会になる。
深夜の酒場には夢がある。その夢を、空間を通じて人と見る。同じ人とでも、毎度必ず違う夢になる。それを見るのが深夜という時間の醍醐味であり、特別さと言える。
人はいつ自然に帰るのか
人と話していると、自然に変える瞬間をみることがある。意識優位ではなく、外側にまとっていたものをゆっくりと下ろし、いつかサラで話ができるような、そんな段階に行き着く実感がある。そこに"自然"を見る。
かかる時間は、人や相性によるのかもしれない。すぐにそういったモードに入れる人もいれば、直近の出来事から、固くガードの構えを崩さない人、意識が定まらないような人もいる。
どんな人と話していても、楽しい。その人が今、どんな状態であり、どう変わると自然に帰るのか、そういったことにいつも関心がある。
その人が話す内容や秘密に、言うほどの興味はない。例えばその人にとって話づらいことなども、せっかく聞いても覚えていない。
それは、その人が話をする有様、状態の変化や、こちらのどんな行動、言葉で安心感を覚えてくれたのか、そういったことから見た映像に、興味があるからである。
その人の自然に触れることができた時、癒しを感じる。普段から意識的な生活をしている現代人だから、その本質にどんな"自然"を持っているのか、その表出を見守っている。
森や川や海を眺めるような、大自然のそれを感じることができる。だから、そういったことにアクセスできるよう、自分自身の心に、清潔さが必要なのだと感じたのだ。
まとめ
これまで何度も"深夜"という時間を飲み過ごしてきたけれど、あまりよく理解できていなかったのかもしれないと、そう思うようになった。
実は、人を理解する、社会を理解するチャンスがたくさん転がっている。とても素晴らしい環境なのではないかと考えた。
まだまだたくさん見落としていることがある。それに気づくには、日頃から修行が大切だ。決めつけないこと、判断しないこと、よく感じ取ること、よく観察すること。
そうしてようやく理解は進む。まだまだ何も、知らないことばかりだ。
深夜酒場に宿った奇跡を、見落とさずに感じ取る。それを実感できたのならば、とても素敵なことなんだと確信する。
ウイスキー飲みます🥃