(10/3日記)人生を心地よく生きていく"素読"のススメ

人は何かを簡単に、わかったつもりになってしまう。

一度わかったつもりになってしまったものは、特別大きなきっかけがなければ、再び見ることをしなくなってしまう。

判断してしまうのだ。それが、理解を止めている。これはウイスキーの飲んでいく中で、とても重要なポイントなんですよね。

社会や人、世界というのは、莫大な書物である。それを読み解くには、心がけとして、"素読"するのが一番である。そう思ったんですよ。

なぜ"わかった気"になってしまうのか?

わかった気になるのは、ラクである。脳がラクをしたいから、見たこと聞いたことを、意識に、理解した気にさせて、記憶から再現したものをうまいことやって投影している。

意識というのは、動き続けるものを捉えることができない。諸行無常というけれど、本当は変化し続けている様を「諸行無常」という言葉で固定までした。

「諸行無常」という言葉は、決して諸行無常とは言えない。いつまでも変わらないものにしてみたんですね。これは何かのギャグなんですかね。

だから、基本的に"わかった気"になるのは、意識のデフォルトなんだと思う。

子供の頃は、わかった気になんてならなかったはずだ。動き続けるものをずっと目で追いかけて、よく観察する。そして理解が進む。

大人になれば、しっかり観察しなくとも、命に別状がないし、それなり社会で生きていけるわけだから、よく観察することなどほとんどしなくなる。

わかった気になるのは、成長を止めることだ。それはすなわち、観察と理解を止めることだ。

だから大人になってから、英語がよく身につかない。日本語なんて、ほとんどヒントがなかったはずなのに、僕らはそれをある程度、理解して、日々生きている。

日本で生きている以上、英語が必要ないのだ。困らないから、よく聞いていないし、よく見てもいない。

判断しないことが大切

観察しない、理解をしないということは、成長を止めることだ。そして、成長しなくたって、ことさら何か、困ることがあるだろうか?

ないのだから、わかった気になってしまう。それはすなわち、判断だ。

「〇〇はこういうもの」「〇〇さんはこういう人」と、決めつけてしまった方が意識にとって都合がいい。

「雨だから、あいにくだね」と決めつけて、誰かと話すきっかけにする方が便利である。だから決めつけたんですよ。

そしたら、「雨があいにく」「低気圧だから不調」などって、信じるようになる。でもそれって、本当なのだろうか?

思い返せばそんなことはなかった。雨の日にやった野球は、泥だらけだけど、それもまた楽しかった。そういうことを大人になって、知らず知らずのうちに失念する。

自分が一度、決めてしまった判断について、全てを棚おろしして、全てを疑ってみてもいいと思う。

判断しなければ、それをよく観察することができる。「なんだ、よく見たら動き続けてるじゃねぇか」と、気づくこともある。

突き詰めてみると、全ての判断は余計だ。いらない。便利だけれど、その気持ちよさに頼っていてはいけない。観察の先に、理解があると思う。だって、何より自分が変わり続けているんですからね。

判断が苦しみを生む

「雨だから、あいにく」として、苦しみは発生した。それは、判断が生んだ苦悩である。

雨に、良いも悪いもない。または、良いも悪いもある。それを知らないから、意識が勝手に決め付けてみた。

裏を返せばそこには、必ず快楽がある。快楽と比べた結果、苦悩なのだ。だから判断は気持ちがいい。

それは"理解"を阻害する。心の波を、上へと下へと動かしているから、その反応に揺さぶられてしまう。しっかり見ている場合じゃなくなる。

よく見てみると、そんなの本当は何もない。"有る"だけが確かにあって、それに良いも悪いもない。勝手に判断しただけだ。

わかった気になってしまうから、期待通りにことが進まないだけで、イライラする。相手はこういう人と決めつけたのに、思ってもいなかったことを言われたからと、嫌いになる。そういうのは全部、自分が起こした"判断"ですよね。

素読のススメ

じゃあ、何やったら良いか?と考えた時に「素読なんだな」と、一定の理解に至った。素読とは、例え意味がわかってもわからなくても、立ち止まらずに、解釈を入れずに読み進めることである。

本当は、英語だって困れば話せるようになる。 半年も英語圏で暮らしていれば、意思疎通くらいはできるようになっている。それは、見知らぬ言葉を話す部族とでも、きっと同じことだ。

そもそも、ぼくらはみんな、生まれてきてからノーヒントで成長してきたのだろうか。10代のほとんどを、"素読"して、ふんわりとしたイメージから、言葉や表現を出力してみて、他者と辻褄合わせながら、理解を深めてきたんじゃなかろうか。

素読するには、余計な力が入っていてはいけない。肩の力を抜いて、ひたすら"見る"ことに集中する。そうした時に、ようやく見えていなかったものが見えてくる。

余計な判断が、情報収集のスピードと処理量、そのテンポ感を妨げる。いちいち判断していては、流れるものも、流れが悪くなりますよ。

理解というのは、突然ふとした時に起こるものだ。素読によって収集した、ありあわせの情報を、頭の中で、賄い飯のように料理する。そうして理解は進む。

川が流れるように、見ること、聞くこと、嗅ぐこと、味わうこと、感じることを繰り返して、人は大人になっても成長する。それ自体が生命現象であり、受け入れられない苦悩など、決して伴わないのだと、ぼくは思う。

まとめ

そうして考えてみると、人に判断されることも、評価されることも、あんまり気にならなくなるんですよ。だって、一刻一刻と変化しているんですからね、「評価された自分」は「今の自分」とは別人ですよ。

判断しない人というのは、簡単にあなたから離れたりしない人です。理解し続ける重要性について、知っているからなんですよ。てか、できなくね?そういう理屈です。

生きている以上、よっぽど判断なんてできないですからね。わかるのは、現在の"状態"だけですよ。

この先どう変わるかで、結末はガラッと変わってしまう。過去の失敗が、未来で「あの時、あれがあったからよかったね」と言ってしまえば、それまでなんですよ。決めつけてしまうにはあまりに頼りないですね。

未来がより良いものになるよう努めるだけですよ。全部変わって「よかったね」と言える未来、または、今からでも、そう思ってしまえばそれまでとも言えます。

こと自分において、これからもっともっと世界を、人を、今取り組んでいることを、理解したいと思ったならば、余計な判断や解釈などせずに、ただひたすらに"素読"できることが大切です。

もしそれができないようであれば、少し自然などを眺めてみたり、五感に意識を向けられるような体験を、日々の中で実践してみると良いかもですね。

そういったことが、とても大切なんだなぁと、そう感じたんですよ。

ウイスキー飲みます🥃