(10/2日記) 意識と感覚、頭と身体、自分と社会の折り合いについて

生きているだけで、まるで折り合いがつかない。そう感じることがあります。

2つに分裂するような、分断されていくようなそんな気分のことです。

意識ではこうしろという、身体はそれを嫌がっている。その逆もあって、だから迷う。そうして人は動きを止めたり、または暴れてしまったりするわけですよ。

ぼくは専ら「動けなくなる派」である。無気力になり、ウツになる。外に出たくないし、誰にも会いたくなくなる。

頭でわかっているけれど、身体がそれを拒んでいる。つまり、折り合いがついていない。そういうことを繰り返して、長い時間を溶かしてきたと感じたんです。

"高層ビル"みたいに肥大した自意識

大人になるほどに、特に20代のすべての期間をかけて、自意識が膨らんでいく。「自分」というものの、その大きさ、その存在の確かさを認めていたい。そう思っているのが自意識です。

「自意識過剰」というのは少しばかり、揶揄する印象を受ける匂いがするけど、単に現象・症状・状態のことにすぎないと思うんです。

「〇〇さんは、自意識過剰だね」といえば、〇〇さんは傷つくだろう。なんせ自意識過剰なのだからね。

それでも落ち着いて理解しようと努めると、それが"過剰"になっているのであれば、適正になれば問題がない。そして適正とはなにか?という疑問が湧き上がります。

自意識は肥大する。または高層ビルのように、上へと高まっていく。意識は"自分"を大きな声で主張している。それを自意識と呼んでいる。

肥大して、高まっていく自意識は、感覚を遮断するから、あまり世界のことをよく見ようとしていない。それは、頭の中に作った夢の中で生きているようなものです。自意識は夢を見ている。

それを言い換えるところ、つまりは寝ている。起きながら寝ているのが、肥大した自意識の特徴である。

自意識に風を感じることはできない。花鳥風月の実感がない。頭の中に引きこもり、人の顔をみていない。世界について、知った気でいる。自意識というのは、とっても無知なんですよ。年中エアコンで空調管理していたら、季節の風なんて知りませんから。

"自分"なんていない

意識は、"自分"を主張しているが、それは果たして本当なのだろうか?

朝食べた納豆ご飯は、いつどこで"自分"となり、どれが"自分"とならずに排泄されていくのか、実はあまりわかっていないですよね。

意識が"自分"を主張する。身体の成分は、7年もあれば全て入れ替わるという。全てが入れ替わってしまった"自分"を、自分として主張するってどうなんだろうか。

意識は基本的に身勝手で、感覚を置き去りにする。感覚とは自然であり、そこに判断も解釈もない。判断や解釈は、意識が行なったものである。「雨は嫌だね」と言ったのは、感覚でなく、意識ですよね。

意識は身勝手である。"身勝手"という言葉は、「身体が勝手にする」という意味です。意識が感覚を支配しており、自然の中に振る舞うことを許さない。そうすると動かないか、乱暴なことをしだしたりする。そうゆうことが、勝手です。

自意識というのはモンスターである。そのモンスターが、自然を排除しようと働いている。より効率的だと信じられた方向、見たくないと感じたものを見ないようにする方向性、そういった形で自意識は世界を塗り替えようとしたがる。

だから自然は追いやられていく。それは感覚や身体を含んだものなんですね。

"自分"と"社会"との折り合い

自分との折り合いがついていないのに、社会との折り合いなんてつくはずがないと、ぼくはそう思っている。

自分1人が不協和音を鳴らすのに、社会でハーモニーが奏でられるわけがないですよ。

だから、頭と身体、意識と感覚の調和を求めること。「心身一如」と言いますが、それを練り込むように、回すように、全身を一つにする必要がある。それは修行です。

社会というのは柔らかく、自分というのもまた、柔らかい。

それぞれ硬いものだと勘違いしていると、身動きが取れなくなる。決めつけてしまわないことが大事だと思うんです。

高すぎる自意識は、しっかりと身体の声を聞くことが大切です。そうしているうちに、人の顔が見えてきて、社会との循環が生まれると、最近は感じています。

つまり"折り合い"とは"調和"のことであり、"循環"のことであると気がついた。血や気を全身に巡らせる。それが社会と共鳴し、個性を失わずとも、響きあうことで一つになっていくんです。

まとめ

本当に長いこと、「動けない」ということに悩んできたんです。"頭でっかち"とかいうけれど、それはおそらく"自意識過剰"ってこととおんなじです。

身体に委ねてみると、常に自然と動きたい方向に動き出していることに気がついたんですよ。

意識的に求めるものでなく、感覚的に求めるものに素直に従う。その動きに意識がサポートするように、全身を調和させていく。そういった動き方は、頭を使っているようで、あまり頭を使っている感覚がなかったりします。

自分でも、自分で表現したものを見て「へー」って思うような、そういった無意識的な、神秘的な体験があります。

身体や感覚が素直になると、頭や意識も素直になります。"自分"を極端に主張することはなくなるし、周囲の人の顔もよく見えてくる。

今は、そういう修行をしています。全身の心地よい響きが、周囲にどんな影響を与えていくのか、いい気を巡らせるのか、そういうことが楽しみの一つなんです。

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