(10/25日記)他人との間に線を引かない練習

SNSなどでちょっと数字を持ったり、小金を手にしたりすると、途端に自分が"特別"だと勘違いするようになる。

"特別さ"を感じるのは勝手なのだけれど、その裏には、必ずと言っていいほど差別意識だとか、優劣の思想を孕んでいるものである。

特別じゃなかったものが、"特別さ"を感じ始めたとき、静かにしていた傲慢さがわかりやすく露出する。

そもそもは、劣等感を感じていたものがひっくり返ったにすぎず、それは、他人と自分の間に線を引いたことによって現れたものだ。

あまりに他人と自分の間に線を引き過ぎることに慣れるから、思わず身勝手なことをしだしてしまう。その結果、悪性の自尊心が大きく膨らむことを、ぼくらは許してしまっている。


線を引くとはどういうことか?

線を引くとはどういうことなのか?これに似たようなことを、そもそも考えたことがあるだろうか?

「わたし」と「あなた」はあまりにも別人で、他人である事実が確かにあり、ぼくらはそれを自然と受け入れている。

あまりに強くそれを受け入れているから、よりくっきりとした線を引くために、「これは〇〇さんの所有物ですね」とか「〇〇さんの功績がこちらです」といったように、物事の所在を明確にしたりする。

その引いた線を大きく侵害すれば相手には怒られるわけだし、侵害されたなら不快に思ったりするだろう。そういったことが、他人と自分の間を隔てている。

これまで何度も書いてきたのだが、これもまた自意識の主張そのものであり、どこまでを自分としているのかによって、線を引く場所が変わってくる。

心地よい関係性とは、引いた線が互いの了解によってうまく定められているから、誤解が生じにくい。または、そもそもボーダーレスな関係性を長年の信頼によって獲得しているから、"あいつ"が多くのリソースを使っていたとしても、こちらはあまり気にならない、そういったケースもある。

線を引くことによって、"自分"の輪郭が見えてくるような気がする。ここからここまでを"自分"とするので、そこから外は"他人"であると、意識は常に認識したがっている。

線を引くことの弊害

近年では、自己理解のために自己を分析したり、ツールに頼ることによってアイデンティティを発掘したがっている人が多く見られる。ぼく自身も、そういった時期は多分にあったように思う。

それ自体はきっと、安心材料として便利なのだと思う。これだけ"何者"かになることを強く求められていると感じる社会にあって、「自分ってこんな人だったんだ」というのが一つでも分かったなのならば、確かに安心である。

ただ、それを固定化してしまうことはやはり危険である。一向に変わらない、岩に刻まれた文字のように、変わり続ける生命の進化を止めてしまう傾向があると思う。

他人と自分に線を引いて、自分を理解しようとすると固定化する。そこには他者との関係性を軽視する傾向があると、個人的には感じている。

本来、シームレスであり、循環的であることが"自分"という存在で、境界線を引けないことで、ぼくらはそれぞれが互いに成り立っている。

自らを語ることは、他を語ることと同義なのだ。線を引くことで見えなくなるものが、あまりにも多すぎる。他との関係性によって"自分"を観測できるのであって、他なくして"自分"は存在しえない。そんなことを、最近はよく感じている。

まとめ:他者との間に線を引かない練習

これには意識的な実践が必要だと感じている。意識していないと、図らずも自意識は暴走して、いつも通り「私が」「俺は」とうるさくしすぎる。

例えば人前に出たとして、ステージの上に出たとして、SNSで発言するとして、出演者と観客の間に線を引くならばきっと、緊張するだろう。それは、「見られてる」という自意識か、「伝えてあげる」という傲慢さか。

そもそも線は、自分が勝手に引いたもので、元をたどればそんなものの存在は怪しくなる。東京と千葉の境界など本当にあるのだろうか。

他者との間に線を引かない練習として、他者を自分として思いやることをできたらいいなと、最近は思っている。おせっかいすぎるわけではないけれど、労るような、気にかけるような、そういった気分のことである。

実際、他人との線を明確に引いた都会で、こけて怪我をした人を見かけても声をかけることは難しい。だけれど、田舎で同じ境遇になれば、そんなにむずかしくは感じない。

都会は「自分が助けなくても、誰かが助けるだろう」と、線を引きがちである。だから、孤独感が増していく。誰もがそうでないと思うけれど、そうなりやすいのだろう、というのが感覚を通じて得た所感である。

それならば、他者との間に線を引かない練習をするべきだと思う。これは馴れ合うという意味でもない。そもそもが同じなのだという理解のことである。

そういう理解の上に、思いやりがある。それにはどういった具体的な手だてがあるのかは、まだまだわかっていないんだけれども、コケて怪我をしている人がいるならば、「大丈夫ですか?」と声をかけることくらいなら、今の自分でもできると思ったのだ。

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