SNS中毒の終わり

SNSとは距離を置こうと思い始めた。youtubeで無責任に動画をパッと見て現実に帰るくらいの距離感がちょうどいい。SNSで仲いい人が増えると、心に余所行きの身だしなみを整える必要が出てきて、それはSNS上で自分のペルソナに求められる欲求にこたえるための労苦にすぎない。何より、つぶやかれている内容が世知辛すぎる。インターネットをしていても腹が膨れるわけでも、いい汗をかいて爽快になるでもない。実りの少ない現実だったのだ。

SNSをやめることは、自己表現の出口を一つふさぐことになる。すると、残された限られた自己表現の手法に着手したときに、その出口から噴き出す表現の圧力が高まって、創作物の密度が高まり、目標への速度も上がるのである。


俺は周りに与えてばかりで、周りの人間は与えられていることすら気づかず、しかもその傾向は年々強まっていく、それが今まで経験してきた辞める理由だった。これを感じると本当にごく自然にきっぱりと辞められる。SNSにも同じことを感じ始めている。私から多くのものを得る人はいるだろうが、私自身のためには何もなっていない。


20240220
ああ、再びhiphopファッションも好きになったね。高校の時は買わずに出てしまったけど、これで止まっていた時計が再び動き出すんだよ。恥ずかしがらなくても、自分が思いついたベストの興味ある事に着手していいんだ。当時は周りの要請にこたえてチョケてしまっていたからね。本当にしょうもない連中だ。そんな奴らに耳を貸す私も私だ。


20240307
随分長い間下品な人間としか付き合ってこなかったために、幼少期に叩き込まれた上品な人の間でのふるまいという最高の教養が薄れていたようである。程度の低い人間はそれを八方美人だとか点数稼ぎだとか言うだろう。一切聞く耳を持つな。地獄の餓鬼がつぶやく地獄の作法に耳を貸す必要が無いように。大丈夫、幼少期に叩き込まれたおかげで、どんな生活を送ろうと完全に消えはしない。ありがたい財産である。

天長山に生えていた大きな杉の木や、棚田の横の湿地に生えていた広葉樹の林、これらは神代の時代の風景であった。生活のためだなんだと言ってこの風景を壊すことに加担することは全くのいくじなしがやることである。意気地なしの仕事をから、誇りをもって離れることを選んだ自分を褒めたい。

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