人は変われる(あいつは変わった)

ずいぶんチープな言葉ですが、僕が人は変われると思った体験を一つご紹介させてもらいます。

この前、成人式の後に中学校の同級会がありました。

そこで、小学校の時いじめられてたやつに会ったんです。

いじめといっても殴る蹴るではなく、ちょっと変わってるというかズレてるというか…のせいで、ちょっとコミュニケーションがとりづらく、馴染めないといった感じです。

でもたまにちょっと小突かれていることもありましたし、色々とつらかったと思います。

僕はたまに話すくらいで、知り合いという感じでした。

小中と一緒で、ずっと知っていたあいつが、同級会の時、すごく明るくなっていました。相変わらずズレてるというか若干人と変わってるところは変わっていなかったけど、周りに対してすごく明るく、怯える様子もなく、話せるようになっていました。

僕は驚きました。あいつ、めっちゃ明るくなってるやん!と。

僕にも挨拶してくれました。おお、久しぶり、元気か!って。

僕は元気っすよ、そこそこ。

会話はそれだけだったけど、あいつはどこか違う場所で、すごく良い体験をしてきたんだなって思いました。あいつの笑顔はそんな笑顔でした。

良かったなあと思います。

だから、人は変われるんだと思います。環境が違えば。環境を変えずに変わっていくこともできないと思うけど、環境を変えたら変えたでも変わることができると思います。

あいつは小中学校のときよりも幸せになったんじゃないでしょうか。本当のところは知らないですけど。

ここでもう一つ、人は環境によって変わるという架空の例を紹介したいと思います。これは大学の授業で先生が使っていた例です。

小学生のAくんは教室でじっと授業を受けることができず、歩き回ったり声を上げてしまったりしていました(奇声をあげるというより思ったことが声の大きさもそのままですぐに口に出てしまうタイプ)。授業に支障が出るのも当然で、先生は静かにするようお願いはしますが、Aくんは制限されることが苦痛なようでなかなか改善せず、他の生徒も先生も少し困り気味でした。Aくんを排除したり仲間はずれにしたりするようないじめは起きませんでしたが、Aくんにとっても他の人にとっても息苦しい日々が続いていました。

ですが、Aくんがみんなから喜ばれる出来事がありました。それは小学生の有志と地域の主婦などが混じって行われるお料理教室でのことでした。いつもどおりAくんは落ち着きがなくて喋ったりしていたのですが、お料理教室に参加していた人達には、Aくんがとても場を明るくしてくれる人という風に映ったのです。Aくんも不器用というわけではなく、料理の工程はこなすことができていました。Aくんの騒がしさは相変わらずでしたが、教室では迷惑とされていた騒がしさが、お料理教室では明るさという言葉とともに歓迎されていました。Aくんもみんなが自分を良い風に思ってくれるおかげで、嬉しい気持ちでした。教室では好ましく思われていなかったAくんでしたが、Aくんを喜んでくれる居場所はあったのです。

この例からは、環境が違えば短所ですら長所になりうることが見て取れます。

だから何が言いたいのかというと、自分に合う場所はどこかにあると信じてほしいです。努力の先に手に入る場所がそうかもしれませんし、ちょっと横移動すれば見つかる場所かもしれません。ともかく、あるのです。それは、信じるのが馬鹿みたいだと思えるほどに今の場所からは見えないかもしれないけど、あるのです。

僕はまだ見つけられていません。色んな場所を通り過ぎていく中で、部分的に良いなと思える場所を体験してこられました。兆しはあったのです。でも、何かもっと良いものが、僕がこれから進んでいく中にあると思っています。

でももし短所がずっと短所でしかなかったとしても、何かを変えようとするのなら救われるべきじゃないでしょうか。不器用な人を認めるべきじゃないでしょうか。それは難しいことなのでしょうか。今の社会にはそれだけのゆとりって果たして本当にないのでしょうか。

実は、一生懸命であれば救われるべきというのは全員に当てはまります。なぜなら一生懸命生きていない人はいないからです。その時に出し切れる力を使ってみんないまを生きています。全力を出せないということもまた全力なのです(?)。

というわけで、色々受け売りを組み合わせてつなげている部分もあるので説得力があるかどうか不明ですが、人は変われるというテーマでお送りしました。

本当は話っていかようにでも作り変えられると思います。だから自分の中の話もどうにでも変えちゃっていいんじゃないでしょうか。僕がここで出した例からも発見があればいいなと思います。

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