フランツ・カフカ「判決」

 物語は異国で商売をしている友人に向けて、主人公が手紙を書くところから始まる。友人の商売はうまくいっていない。それどころか、病に侵されている様子。そんな友人に対して、自分には婚約者が出来た。そのことを報告するために、主人公は思い悩みながら手紙を書いていく。
 ようやくできた手紙の内容を父の部屋に報告しにいく主人公。そこには母を亡くし、職場でも居場所を失った老いた父が暗い部屋でうつむいている。

主人公「父さん、あの異国に行った友人のこと覚えていますか?手紙を書いたんです。僕に婚約者ができたことも思い切って知らせようと思いましてね」
父親「お前に異国の友達などおらん!」

 えぇえええ、びっくりである。

 今までの物語は流れるように入ってくるのだが、いきなり「父」が流れをぶった切ってくる。

主人公「いや、いますとも。父さんとも楽しく話しましたよ」

 優しく否定しながら、汚れた父親の下着を履き替えさせたり、父をベッドに運び、毛布にくるんであげる主人公。だが、

原文
父親「ちゃんとくるまれているのかな?」
主人公「心配ご無用、ちゃんとくるまれていますとも」
父親「そうはさせん!!」

 どうしちゃったのお父さん。そのあと勢いよく立ち上がった父親は、一転して異国の友達のことをよく覚えていると叫び始める。

 もう何が何やら。そしてついにはこんなことを言い出すのだ。

父親「あの友人とわしはつながっている。実はお前のその婚約者のことなど、友人は当の昔に知っているとも。まんまと騙されやがって!お前がこうやって、のこのこ報告にやってくることも知っていたのさ」
主人公「だましていたのですね!」

 いや、このお父さんのこと、そのまま信じるのかよ。と思っているうちに、物語は急展開する。

父親「死ね!」

 そういわれた主人公はそのまま、身を投げてしまうのである。

おわり

なんだったのか、このお話は。

頭の中の裁判官

 この話について、自分なりに解釈したことがあるのでまとめてみたい。
 まずこのお話の出来事は、ただの暗喩なのではないか、ということである。例えば、一人の頭の中の出来事を実際の人々にたとえて表現していると考えてはどうだろうか。
 具体的には、どんなことにも、その人なりの善悪の基準がある。例えばこの記事を投稿をしてもいいか悪いか、店の物を盗ってもいいか悪いか、苦しんでいる友人に自分の幸せな話を報告するべきか否か
 そういうとき、人はふと立ち止まって、悩む。それをしてもいいか、してはいけないかを悩むのである。判決を下すために、頭の中で裁判が行われるとしよう。法廷に立った頭の中の裁判官は容赦なく判決を下す。場合によっては自分自身の存在を脅かすような判決を下すこともあるのだ。

裁判官 兼 父

 この物語の場合、頭の中の裁判官に任命されたのは自分の父親だったようだ。というイメージは、人にとっては厳格であり、善悪の基準となるような存在になりえるだろう。
 とはいえ、実際の父親は自分の頭の中を知らない。しかし頭の中の父は何もかもお見通しなのだ。そんな父が頭の中の裁判官とあってはひとたまりもない。やましいことも、やましくないことも、すべてが丸裸の状態で主人公は詰問を受けたのである。裁判はどうやら異国の友人について主人公の仕事について、そして父の扱いについて、この3つの観点から主人公に判決が下ったらしい。

本当に主人公の判決に「死」は妥当だったのだろうか。

異国の友人

 まず初めに異国の友人に手紙を宛てる際、主人公は婚約者のことを伝えるべきか悩んでいる。友人の商売はうまくいっていない。そしてここ最近の手紙のやり取りは表面的なものだ。本当は一か月前に婚約していたけれど、友人に隠していた。そして自分は友人のことをみじめで憐れむべき存在だと思っている。ここで文中の表現を借りるなら、主人公の友人のことを裁判官(父)はこう表現する。

原文
ゆ・う・じ・ん、と父は妙に強調して言った。

 厳格なだけではなく、皮肉まできつい裁判官である。

主人公の仕事

 母が生きている間は、家業でも頑固だった父親だったが、母が亡くなってからは気が弱くなった。家業を継いだ主人公の商売はうまい具合で波に乗る。そのことについて、主人公は「幸運が重なった」と内心思っているようだが、父は「おもしろくないこと」と表現している。

父親に対する扱い

 父親に対して甲斐甲斐しく振舞っている様子だが、その実、文中では父の声を聞きながら、父の死を願う主人公がいる。仕事についても頑固だった父は主人公にとって、本当は邪魔者だったのか。仕事以外では口を利くことも少なかったと表現されている。老いた父親の汚い下着を見て、自分が世話できていなかったことに主人公が傷つく場面もある。

以上の3つの観点から文中の言葉をそのまま使って、裁判官(父)の包括を聞いてみよう。

原文
...女としんねり楽しみたいものだから。母さんの思い出を辱め、友人をだまくらかし、父親をベッドに押し込んだ..本来は無邪気な子供にあったにせよ、しょせんは悪魔のような悪だったわけだ!...わしは今、お前に死を命じる

誰の心の中にでもいる主人公

 頭の中とは言え、この裁判、厳しすぎやしないだろうか。しかしこの判決と言う物語を何かの例えだと考えずに読めば、死は理不尽に思えただろう。なぜなら、いくら主人公がずるがしこかったとしても、出来事として直接過ちを犯しているとは考えにくい。
 しかしながら物語を離れてみてほしい。日常の中で僕たちは頭の中で何度も裁判を行っている。そして時に、自分なんて死んだ方がいいと思うこともある。つまり裁判官が父であれ、自分であれ、誰であれ、裁判が頭の中で行われる限り、被告人(自分)にとって厳しすぎる判決が待ち受けていることは明白だからだ。なぜなら、その裁判では被告人の行動、感情、考え、すべてが白日の下にさらされているのだから。

 そんなとき、自分に厳しすぎる判決について、この物語のように客観的にとらえることも大事なのではないだろうか。
 待て待て、おかしいぞ。いやいや、死んだ方がいいというのは考えすぎだ。理不尽だ。

 そう思えたなら、弁護人を立てて、抗議してもいい。理不尽だと思う気持ちを信じてみてもいい。自分が弁護人に立てたら、それが一番なのだけど。

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