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外国語習得と自己変容

外国語学習で日本語を捉え直す


各言語は地域文化の価値観が色濃く反映されている。
よって、外国語学習のプロセスにおいては、母語である日本語と対象言語との間でどうやって翻訳したらいいか難儀する機会が幾度となく訪れる。
こういった経験を経て、自分の日本語を客観的にメタ的に捉え直すことができているんではないだろうか。

日本語の勿体無いを世界にMottainaiと表現されたことがある。
これは、英語に訳そうと思えば、wasteとか代用するのであろうが、これだけではもちろん全てを包含できていないことは、日本人である我々からすると感じることができる。
勿体無い、というのは、単に浪費されてるという叙述だけではなく、何か申し訳ない感情とか、残念な気持ちとか、そういう心情が含まれている言葉だと僕は感じる。
この感じ方はもちろん人それぞれあるだろうが、それは日本社会で育ち、勿体無いと表現されるシーンを何度も経験して、ようやく馴染むモノだ。

これはほんの一例であり、それぞれの単語、表現がそうなのである。

日本語母語話者としての自分を超えて

そういうわけで、支障なく外国語でコミュニケーションをするには、日本語を話す自己から離脱し、その外国語のマインドセットで話す必要が出てくる。
そうでないと、母語話者との間に乖離が生まれる。違う概念で対象言語を操ると、なんとなく話が通じなくなる。
だから、完全に現地に馴染み、自由に外国語を操る人間が、話す言語で価値観や性格が変わるのは当然だと思う。

ただし、非ネイティブ同士の共通言語として使用するケースにおいては、そういった経験はなかなか生まれづらい。なぜなら共通言語はニュートラルなものだからだ。そのコミュニケーションは言語地域のアイデンティティとの結びつきがかなり弱い。

一方で、その地域に住んでいたり、相手が母語話者である場合は、その言語地域のアイデンティティが自分に取り込まれていく感覚がある。

しかも、外国に住み、外国語を話す割合が増えるほど、日本語について若干の他人感が生まれてきて、対象言語のアイデンティティがデフォルトモードになる。
母語であり、最も自由に扱えることに間違いはないのだが、日々の日常での使用割合やシチュエーションが制限されてくると、今の生活との接点がなくなり、どうも外部化されたモノに感じてくる。

日本語のモノリンガルであれば、日本語という既存のフィルターでしか事物を表現できないし、日本語の外にある世界に触れることはできない。

多言語学習の醍醐味は、新たに言語を身につけるということだけではない。
外部世界との比較を通じて、言語にある表現、役割を再考し、コミュニケーションそのものを捉える、そして自分の変容していく姿を楽しむ機会なのだと思っている。

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