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壊れたイヤホンはまだ直さない

 イヤホンを付けて電車に乗るようになってから、もう一年以上が経ちました。私は片道40分ほどかけて通学をしていますが、その間は友達に教えてもらった曲を聴く時間にすると決めていました。

 そんな私ですが、最近イヤホンの調子が悪くなり、耳に何も付けずに登校する日が続きました。修理に出してもらおうか、それとも新しいイヤホンを買ってもらおうかと思ったけれど、やっぱりしばらくはこのまま、イヤホンをつけないまま過ごそうと思っています。

 私が裸耳にハーフアップで通学していた頃は、駅のホームで電車の乗り換えについて尋ねられることが何度かありました。
 高校2年生の秋でした。40代くらいの女性の方に突然話しかけられて、__線のホームはどこですか?と言われました。私は一瞬悩んで、「わたしもそれに乗るので、一緒に行きませんか?」と伝えました。本当は違う電車に乗った方が早いのだけれどたまにはこういうのもいいかと思い、その女性と同じ電車に乗りました。

 何も話さないのも気まずくて、というよりは、その方がとても丁重にお礼を言ってくださっているうちになんとなく打ち解けてしまったのですが、私がその電車を降りるまで、いろいろな話をしました。将来は何になりたいの?だとか、私は今こういうお仕事をしていて、だとか。その方は国際協力に従事されていて、いろんな興味深いことを話してくださったのを覚えています。
 私は高校2年生なんです。と話しました。人生の大事な時期だね。と言われました。大学受験があるからという意味だったのか、それともそれ以外の何かだったのかはわかりませんが、私はとにかく、「はい」と答えました。どちらの意味でも確かに大事な時期でした。

 私たちは本当に親しくなって、けれども私は途中で降りて、もう2度と会うことのない別れを惜しむ間もなく電車は走って行きました。私はもうそんな日がないことをわかっていながら、「いつかまたお話ししたいです」と言いました。その方も「私もです、元気でね。」と手を振ってくださいました。とても素敵な一期一会だったと思います。

 電車に乗って会話をしているとき、窓の外には遠くに夕日が沈んでいくのが見えていました。「次は、____。お出口は右側です。」のアナウンスが聞こえるたびに太陽はだんだんと姿を消して、澄んだオレンジだけが大空に残っていました。電車を降りるといつもの駅前の風景が広がっていたけれど、ふとすっかり暗くなってしまった空を見上げて、ここからは見えない星たちのことを考えました。この曇り空のうえには数え切れないほどの星があって、ここから見える星は実際に存在している星のきっと何万分の一のものなのだろうと思いました。


 それから月日が経ち、私は勿体無いことにしばらくイヤホン生活をしていました。そしてイヤホンが壊れた時にそれを外すと、もう忘れてしまっていた、空気が耳を伝う感覚を覚えました。再生している音楽の背景として埋もれていた景色が、その時久々に主役になりました。ランドセルを揺らして走る小学生の背中も、店の暖簾を上げる居酒屋のおじさんも、交番の警察の方の視線も、なんとなくいつもとは違って見えました。


 しばらくはイヤホンをしない生活を続けたいと思います。音楽を聴きながら歩くと、歩きながら自分だけのミュージックビデオを観ているような気分になって、その時間もとても好きでした。だけど今は、イヤホンをしないで歩く街のことももっと知りたいし、またあの頃のような一期一会に遭遇することも、密かに期待しています。


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