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依存の始まり

私が育った家は、とても古くて狭かった。

私が生まれた時にはもう既に築70年とか80年とかで、材質は木造で
トタンやブリキなんかで後からコーティングしたり、増築したりで。

今は古民家が人気だけど、あんな風に落ち着くとかレトロだとか、
リノベーションして内装はオシャレだ、とかとは全く程遠い家だった。
狭くて古くて、なんだか重苦しい家に、さらに家のサイズに見合わない
家具や家電が押し込められていて、本当に窮屈だった。

家には窓がいくつもあったし、小さいけれど雨戸と縁側もあったし、
それらをよく開け放していたから、外の空気も通っていたはずなのに、
家の中の空気はいつも重たくて湿っていて、
まるで、灰色を帯びたような色と重さだった。

透き通るような、気持ちのよい青い空気の時も、
エネルギーに満ちたような、オレンジや赤の時も、
記憶の中にはほとんどない。

ただ、叔父と過ごしていたときだけは、
明るくて柔らかい空気で、パステルカラーのようだった。

グレーがかった、ずっと、重くて苦しい空気の中で、
私は、私の中を巡る最後の気が滅入ってしまわないように、
この暗い空気に飲み込まれきってしまわないように、
じっと身を潜めて、周囲の色んなものを受け取り過ぎないように、
固めて、守って、生きていたと思う。

ほとんどどんな時も、家の中で気が休まることはなかったし、
何かに没頭出来る時も、夢中になれる時もなかった。

ただその中でも、料理と食事の時だけは、
私と父、私と母をそれぞれ繋ぐことがあった。

父は、得意料理のチャーハンを作るときは楽しそうだった。
目の前でつくりながら、私に作り方や味を自慢するように、
共感してほしそうに、コツやポイントを聞かせ、食べさせてくれた。
それは、上に半熟の目玉焼きが乗せた、醤油もウスターソースも
お好みソースも入った味の濃いチャーハンだった。
今思うと、私の好みとは全然違うけれど、
一緒に楽しみながら料理をつくること、食べることで、
少し張り詰めた気が緩んでいた。
普段の、酔っぱらって怒る父や怒鳴る父とは違う、
優しくて少し可愛げのある父と繋がれたように思えた。

母とは、また、父とは違う形で繋がった。
普段から母が料理をしていたので、その中で、玉ねぎのみじん切りやら、
しょうがのすりおろしやら、家事の手伝いをすることもよくあった。
他にも、私が学校の調理実習で煮込みハンバーグを習ってきて、
「とても美味しかったから」と、母に伝えながら一緒に作ったりもした。
その後も「一緒にハンバーグ作ろうか」なんて声をかけてくれて、
とても狭いキッチンに一緒に並んで料理したりしていた。
私が美味しいと思った料理を覚えていてくれること、
一緒に作ろうと思ってくれること、そんなことが嬉しかった。
キッチン以外で、母と2人の空間になり、
繋がれることはほとんどなかったから。

もう1つだけ母と繋がったのは「洗濯」だった。
ちょくちょく学校を休んでいたのだが、そういう日は少し長く寝ていて、
起きると大体母が洗濯物を干していた。

父や叔母はその時間には仕事に出ていたから、その空間、家の中には
私と母しかいなくて、少し空気が和らいでいるようで
ほっとしたのを覚えている。

あの家で生きてきた私にとっては、「料理」や「食事」が生活の中で唯一、自分の気を少し緩られる時間であり、父や母とも曲がりなりにも
「家族らしく」繋がれるときだった。

私が食べ物に依存したことも、執着したことも、それが原点なんだと思う。
苦しくて悲しくてたまらなかった毎日の中で、
ただその時だけが、私を緩ませてくれた。
だから、苦しい時にも頼ったし、よりかかったし、
ずっと忘れられなかった。

「料理」や「食事」への思いや、気持ちや、行動は、
少しずつ少しずつ私の体に染み込んで、
「食事」でしか「自分を緩める」ことが出来にくくなった。
辛いことを「食事」で誤魔化すようになった。

他の拠り所は、遠い昔に置いてきてしまっていた。

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