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無駄な期待、無理な期待

私は、母にとって「無理な期待」をかけ続けていたんだな、と思う。

誰かから何かをしてもらったときには、
「背景」や「想い」や「意図」や「欲」や「かけた時間」なんかがあると
思っている。

私は、母に、そういう「機微」に、「感情」に寄り添って、
認めて、受け止めてほしかったのだ。ずっと、小さなころから。
子供にとっては、「当たり前」のことであり、
親に受け止めてもらうことは、発達にも必要なことと言われている。

だけど、私の母にとっては「無理」なことだったのだ。
「言葉の表面」しか分からない人だから。
感情がほとんど震えない人だから。
「共感」なんてできないから「想い」は受け止められないし、
そもそも「共感」していないから「背景」も分からない。

だから、頼んだことは「できる範囲」でやってくれた。
これまで2回引っ越しをしたが、引っ越し日には「手伝い」に来てくれた。

だけど、なんだろうか。
いつも「嬉しくなかった」のだ。

「行動」や「行為」に何も乗っていない、というか、
ああ、「心配」してくれたんだな、とか、
「配慮」してくれたんだな、とか、こういう「想い」なんだな、とか。

そういうことをほとんど感じられなかった。
いや、感じてはいたが、そこにいるのは「母という関係の人」の
思いだけ、だったのだ。
そこに「私」との関係性というか、「私の状況・環境・心境」への配慮は
ほとんど見当たらなかった。

強いて言えば、野菜や魚などの「仕送り」をするから、
受け取れる時間はいつだ?くらい。
だけどそれも、基本的には「母の都合」が主軸で決定されるのだった。

そういうことを何度も何度も、生まれてからずっと、繰り返されてきたのに
私は馬鹿みたいに期待し続けていた。

母が好きなアーティストのアルバムをプレゼントし、
ライブのチケットを取る手伝いをしたり、
誘われれば一緒にライブに行ったり、
ライブのためにやってきた時には駅まで迎えに行き、ホテルに送迎したり。

そうして、「ねぎらっている」だったり、
「嬉しいものを共有する」ということを無理して差し出して、
母にも、同じように「寄り添ってくれること」を期待していたのだ。

ずっと「がっかりしていた」から、返してほしい、
本当は繋がれるはずだと、ずっと、ずっと無理な期待をし続けていた。

でも、無理なんだろうから。
壊れてしまっていて、受け取れないみたいだから。
私のこういう気持ちも、「微塵も分からない」だろうから。
もうおしまいにするのだ。

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