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神の怒りではなく動物の祟りというオリエンタリズム。『悪は存在しない』

『悪は存在しない』では、映画史が積み重ねてきたショットの美学が追究されている。ゴダールやアンゲロプロスの「いいとこ取り」はどうしても鼻につくが、そんな高踏的な「いいとこ取り」をやって一応さまになる現役の監督が世界にどれだけいるかと問うならば、やはり濱口竜介の希少価値の高さは否定できない。

固定でのロングショットやワンカットの移動ショットで、高原の町の生活を写し取る。主人公の匠が淡々と巻き割りを続ける様子は、フィックスのワンシーン・ワンカットしかない。そんな迷いのなさがひしひしと伝わってくる。その長回しは、理念先行というか、アンゲロプロス的な画面内配置の魔力は少なく、どちらかというとハネケに近いインテリのサドマゾプレイって感じだが、それでも、巧の娘・花が飛ぶ鳥を追って画面右から左に小走りしていってフレームアウトするのを固定でとらえたロングショットは素晴らしい。

オープニングについても触れないわけにはいかない。まさにゴダール的でスタイリッシュなタイポグラフィからスタート。冬の森で90度真上を見上げて木々と空をとらえ、ゆっくりと等速で進む移動ショットが鮮烈だ。やがてカットが切り替わり、やはり上空を見上げている花の横顔のミディアムクローズアップに接続される。このさりげないシンクロが、映画が進むに連れて「問いかけ」としての重みを次第に増していくように感じられたことについて、さらに考察したい。

(C)2023 NEOPA / Fictive

というのも、冒頭の悠然たる移動ショットは、誰の目線かということだ。神のような見下ろしではなく、真逆の見上げであり、これは大地からの目線だと考えていい。神=超自然というより、自然そのものの目線だ。では、それを人間の花が引き取るのはどういうことだろう。

本作では、花が動植物と交わるシーンがそこかしこにある。草木の種類に興味津々で、先ほど述べた鳥を追いかけるシーン以外にも、羽を拾って地域の区長に渡したり、飼育されている牛に藁を食べさせたりする。しかし、あどけないというよりは、どこか超然としたキャラクターだ。

おそらく花は、大地=自然に近いところにいて(だから「花」という名なのだ)、それと人間をつなぐ「巫女」のような存在なのではないか。

本作では、人間と鹿の対立関係が不穏な通奏低音として響いている。ペアの生きた鹿が登場する一方で、森の道の脇では一匹の手負いの鹿が死んで白骨化している。鹿を駆除(ハンティング?)するため、地域で花火のように響きわたる銃声。都内の芸能事務所が補助金を目的に設置を目論んでいるグランピング場は、鹿の通り道にあるという設定だ。

終盤、神隠しのような失踪を経て、ボディの弾痕が露になった鹿と対峙する花。これ以上詳しく述べるのは控えるが、鹿からの報復を一身に引き受ける花の姿は、巫女としての役割を超え、生贄のような尊さを醸し出している。

神の怒りではなく、動物の祟り。そこに本作の味わいがある。ただし、人間対自然を描くにあたり、芸能事務所の強欲さを通して現代社会を批判するような紋切り型のメッセージはあまり見受けられない。

そもそも、芸能事務所が開いた地元説明会では、うどん店の女が「私も新参者だけど……」と控えめにエクスキューズしながら意見を述べるのが象徴的である。同席していた巧の発言も似たようなニュアンスを孕んでいて、この地域の開拓の歴史は比較的新しく、かつてはみんながよそ者であり、新しいよそ者を受け入れ続けて今がある、との主旨を述べる。つまり、ここの住民も、自然の側からすれば侵犯者なのだ。いかにも憎らし気に描かれる芸能事務所の社長やコンサルだけが悪者でない。かといって、人間がすべて悪いというスタンスでもない。その先に、花の行為があるのだが、キリストの贖罪というより、アニミズムに基づく人身御供という雰囲気が、本作のオリエンタルな奥行きにつながっていて、それがヴェネチアでは新鮮に受け止められたのかもしれない。

ラストシーンは、オープニングの再現ではあるが、ちょっとした画面の作りの違いがあり、明らかに大地の主観ではない。それを含め、終盤以降はさまざまな解釈が可能だが、解釈ゲームの戯れを招きかねないところがあり、そこに巻き込まれるのは不毛だなと思う。そもそもライヴパフォーマンス用映像の依頼を受けて着想され、セッション的に撮られたというから、イメージ先行でいいという素朴な判断ゆえの仕上がりなのではないか。とはいえ、謎気取りというべき所作はやはりどこかハネケっぽく、ストレートに共感できない部分があるのは、もう相性の問題なんだろう。

いわゆる素人(風)の台詞棒読みの演出は、今どれほどのアクチュアリティがあるのか。例の説明会では、オーソドックスな発声の役者が混在していることが目立ち、ちぐはぐだ。じわじわと揉めていくプロセス自体はシンプルに面白いのに。さらに、芸能事務所のスタッフ2人が町を再訪する車中での他愛のない長大な会話は、本当にうんざりしてしまった。演技のプロがあえて素人的に話そうする演出が鬱陶しい。2人は、畑違いの仕事でクレームをまともに受ける理不尽な立場にあるから、仕事の悩みはまあいいとしても、マッチングアプリがどうだとか結婚がどうだとか、男女間の機微に関わるネタに発展するムッツリぶりが濱口印。とにかく、日本語ネイティブには耐えがたいものがある。生理的に無理。濱口はこの薄っぺらさがいいと思っているのか? コンプレックスを抱えたエリートの下々へのシンパシーというか。しかもある種の偏見が見え隠れする。

過去作を含め、ショットは好みなのに台詞回しは趣味が合わない。前作『偶然と想像』は会話劇なのでいっそう厳しく、黒沢清のスクールから、庵野秀明よりも10倍気色悪い作品が登場したことがショックでもあった。今作は、それが若干緩和された感もあるが、果たして次作はどうだろう。いっそサイレントにしてくれないかな。いや、濱口ならそのうち撮るんじゃないか。

(C)2023 NEOPA / Fictive

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