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ひらめきと過去への眼差しが普遍性を生む。『デ・キリコ展』

自ら「形而上絵画」と称したデ・キリコ。「幻想的」や「非日常的」などと形容されるが、彼の作品にまとめて接して感じたのは、今を生きる私たちにとっては、意外にもなじみのある世界ではないのか、ということだった。

とても「今っぽい」とでも言えばいいのだろうか。

典型的な形而上絵画では、緑を基調とした空の下、クラシカルな建造物を伴ったひと気のない広場に、陽射しが長い影を落とし、人形をかたどった「マヌカン」がたたずむ。確かに幻想的だが、数多あるSFの映画やゲームで見かけるような、どこかの惑星の風景のようでもあり、そこはかとない孤独感や不安を醸すとはいえ違和感はなく、すんなり胸に浸透する。フィクションとして親しみのあるビジュアルだが、フィクションが現実の反映だとするならば、多くの現代人は、この光景の切実さ、リアルさをも感得できるに違いない。

長寿だったデ・キリコの作風の変遷を確認できたのは、今回の収穫だった。初期に象徴派のベックリーンからの影響があったからこそ、形而上絵画が生まれたんだな、と。このビジュアルコンセプトは、1910年にフィレンツェの広場で得た啓示によるというが、ある意味ラッキーだったんじゃないかな。彼のオリジナリティの大部分はこれに尽きると思う。他の作風ではスペシャルなオーラをそれほど感じなかったというのが正直なところだ。写実的な筆致の作品にはオーソドックスな迫力があるし、フォルムは明晰で、悪くないのだが。

1919年、デ・キリコはローマのボルゲーゼ美術館でティツィアーノを観て、「偉大な絵画」たるものに目を開かされたという。それを契機にルネッサンス絵画やテンペラ画の研究を進めた成果が、会場では少し異彩を放っていた、テンペラによる《ヘクトルとアンドロマケ》や《ローマのヴィッラ(騎士のいる風景)》である。

ルノワールやクールベを参照したとされる裸婦には、ティツィアーノの傑作《田園の奏楽》や《ヴィーナスとアドニス》がこだましているようにも感じた。それにしても、ボルゲーゼでティツィアーノの何を観たんだろうか。かなり気になる。そういえば、ティツィアーノも長命で、作風が変化し続けた画家である。

バロックに向き合ったアプローチを経て、1960年代後半からは、かつての形而上絵画の「再構築」に励むようになる。さまざまなモチーフを自己引用しており、セルフリメイクといった趣。それらはどれも、力の抜け具合や明るさが印象的で、円熟味と退嬰性が背中合わせでもあるが、同時期にはウォーホルからリスペクトされたように、ポップアートと呼応する軽さがいっそ潔い。

神話の素材を積極的に用いたことにも表れているように、デ・キリコは過去を重んじた。それは、古典の研究という観点のみならず、幼少時を過ごしたギリシャの生活の記憶を創作に反映させた点を含む。霊感に基づいて、あらゆる「マテリアル」を掘り起こし、リミックスする作法は、まるでクラブDJのようでもある。しかも、楽器演奏に長けたDJだから足腰が強い。デ・キリコの普遍性はそこにある。

マヌカンが「飛び出す絵本」みたいになっていました。

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