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【小説】 悪夢十夜:第一夜「母と瀧浪くん」

こんなことがあった。


「ねえ、瀧浪くんがあんたのこと見てるよ」
男の子の恋心ってかわいくて仕方がない、というように母が言った。
母は楽しくてたまらないと心の底から思っている人だけが放つ、あの顔の皮膚の奥、真皮のもっと奥底から湧き上がる笑顔で、私の耳元に顔を近づけてそう言った。

日能研から帰る夜のバスのなか、母と私は二人で座っていた。小学校四年生の時だったと思う。

小学四年生から中学受験の塾に通う生徒は公立小学校では全然多くなくて、女の子が私を入れて三人、男の子は瀧浪くんともう一人の男の子の二人、5人だけだった。

塾へ行くとき、塾から帰るとき、瀧浪くんはいつも一人でバスに乗っていた。バスで見かける彼は何故だかにたにたと笑っていて、ひとりごとを言っていた。同じところでじっとしていられないのか、バスの通路を前後に何往復もしながら、ひとりごとを言って、一人でにたにた笑って、というのを繰り返していた。

女子3人だけでバスに乗り、塾へ行くこともあった。ちょうどいい時間に塾につくバスは決まっていて、瀧浪くんもよく同じバスに乗っていた。突っ込みどころ満載の瀧浪くんのことを、女子はだれも話題にしなかった。私たちが良い子だったからではない。瀧浪くんはもっとこう、ネタにしたり笑いにしたりすると、こちら側が悪者になるような、そういう子だった。小学校高学年の女子たちにありがちな、人をバカにして、悪意を示すために、本人に聞こえるようにわざとクスクス笑ったり。そんなことをしたらこちらが100対0で悪者になる。私たちはそれを知っていて、瀧浪くんの異様さに気付いていたけど、そこには誰も存在しないものとして振舞った。

学校で彼を見かけたことはなかった。バスと塾でだけ見かけたとき、彼は一人だったし、瀧浪くんには友だちがいなかったんだと思う。みんなが黙って彼を避けていた。

塾へ行く夕方、バスの乗客はおばあさんとおばさんとか、主婦とか主婦のバリエーションみたいなおとなしくて穏やかそうな人たちしかいないけど、それなりに混雑していた。意外と人が多いけど、バスの中でたくさんの大人たちに混じっても、瀧浪くんの異質さは全然薄まらなかった。むしろいっそう変な人として際立っていた。途中で高校の前のバス停から乗ってくるルーズソックスの騒がしい女子高生が増えても、瀧波くんの異様さが中和されることはなかった。

私は瀧浪くんのことをできるだけ見たくなかった。見て、気持ち悪いなって再確認したら、どこがどう気持ち悪いのか、脳内で言葉に変換されてしまって、その思考の痕跡が少しでも自分の中に残るのが嫌だった。だけど嫌だと思うほど、私は薄目を開けながら、瀧波くんのことを観察しまう。ホラー映画を見るときみたいな怖いものみたさや、一種の興味だったのかもしれない。あるいはそれは、身近な危険を察知せんとする、人間の防衛本能だったのかもしれない。

瀧浪くんの髪の毛はいつも脂か体液か、何かで湿っていた。真っ黒に濡れて光る前髪は、不規則にうねって額に張り付いていた。
瀧浪くんの鼻の穴はいつも、膿みたいな、黄色というか黄緑色の大きなかたまりで塞がれていた。両穴とも塞がれていて息ができなそうなだな、と思った。実際に彼の鼻は、息をするためには全く機能しないようで、いつも大きく開いた口のほうで呼吸をしていた。両穴を完全に埋めている黄緑色のかたまりは、時々鼻水をせき止めきれなくなって、それは鼻と口の間の皮膚の上で白くカピカピになって固まったり、鼻水として液体のまま存在したり、していた。

瀧浪くんはよく鼻の穴に指を入れた。要するに、鼻くそをほじっていた。指が奥に入っていくにつれ、上唇が連動するように口が開き、指が入っている側半分の上唇はさらに上に引っ張られて、口が斜めにゆがんでいた。

「ねえ、瀧浪くんがあんたのこと見てるよ」
と母に言われて、私は絶対に振り返らないぞと思った。
瀧浪くんが、いつも一人でそうしているみたいに、今もにたにた笑いながら私のことを見ているのか、それとも今回は笑ってなくて、メガネの奥からジトっとした視線を私に向けているのか、どちらにしても想像すると全身がざっと寒くなるようで、振り返って確認したら損をするのは私の方だと分かっていた。

―きもちわるい
と言おうとして、何がどう気持ち悪いのか母に説明しなきゃ、と思い、塾で一度瀧浪くんと隣の席になったときのことが頭に浮かんだ。

塾の席順は毎週変わる。成績順で前から順番に割り当てられて、周りの子の成績は一目瞭然だった。
瀧浪くんは授業中にずっと鼻に指を入れ、大きな塊を取り出しては、真っ白なプリントに擦りつけた。そしてその黄緑色の塊を指でつまんで、目の前で眺めて、人差し指と親指でコネコネして、角が取れて丸く形が変わったそれを、またプリントの上に置いた。再び指を鼻に入れ、塊を掻き出して、今度は机の裏側に擦り付けた。また指を鼻に入れて、今度の塊は最初の塊と合体させて、またコネコネして、指の上に載せて一通り眺めたあと、食べた。

授業中ずっとそうやって塊を錬成しては、どこかに擦り付け、食べて、を繰り返していたのに、瀧浪くんの鼻の穴につまった黄緑色の塊は一向に減らなくて、彼の鼻の穴が黒い影をもつ空洞になることはなかった。

***
私は母に何か言おうとしたけど、言葉が出なかった。

「ねえってば」
母はなにも考えていなさそう、と思った。女の子の友達が集まって恋愛の話をするときみたいに、ただ楽しくてたまらない、わくわくする、という楽しそうな顔をしていた。

「うるさい」
かろうじて言った。
できるだけ母から逃げたかった。何も考えたくなくて、とにかくここから逃げたくて、でも夜9時くらいのバスは結構混んでいて、母と私はバスの二人席に座っていたから物理的に距離をとったとしてもしれていて、私は小学4年生で、席を立つとかバスを降りるとか、そういう逃げ方は思い付かなかった。

「ねえ、こっち見てるって」
母は無邪気に、そして少しだけ私を揶揄ように笑いながら言った。母のなかでは、私が照れていて、恋とかそういうのが恥ずかしくて、わざと意地悪な返答をしてるんだと捉えていそう。

母が瀧浪くんの気持ち悪さに気付いていないのか、知っていてそう言っているのか、判別がつかない。瀧浪くんの気持ち悪さを母に説明したところで、結局は「ママは全然そんな風には思わない」とか「わからなかった」とか言って、母の主観を力説され、何度も繰り返され、どうせ「男の子の恋心って素晴らしい」っていう結論に着地するだろうと想像できる。そして実際にあと5秒後くらいには、本当にそういう言葉が飛んできそう。

私はバスの二人座席の中で出来る限り母から距離をとって一番端に座りなおした。それでももっと母から逃げたくて、せめて上半身だけでも、と通路側に大きく体を傾かせた。そして、自分にできる最大限の範囲で顔をしかめて、皺という皺を顔の中心に寄せて、嫌だという意思表示のために母を睨んだ。

母は私の顔を見てさすがに何かに気付いたのか、笑っていた目元を戻して真剣な顔を作った。だけど口元はまだうっすらと笑いが残っていた。

「なんでよ….」
「だって本当なんだもん….」
母は本心では納得していない、とはっきりと言葉で示した。そのあと、わざとらしく口を尖らせて、私に怒られたから拗ねてるんです、という表情をした。

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