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【小説】 話にならない女言葉のはなし


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「小説を書こうと思ったの。」
女は言った。

「できると思ったのよ。エッセイをいくつか書いたあとにね、確信したの、私ならとんでもないものが書けるって。それが、いざやってみたら全くすすまないの。セリフの一つすら書けやしない。うそだと思ったわ。」

「あんなにたくさんの文章を書いてきたのに。五百ページの明細書だってイチから書いたことがあるわ。いや、仕事のことを言いたいんじゃないの。もっとこう、内面的なことよ。精神、思想、そういうこと。書きたい内容はいくらでも湧いてくるの。天才だと思ったわ。そう自覚したときから、目に見えるものすべて、人の仕草、匂い、風の音、太陽の光、水のきらめき、この世界のありとあらゆるものが文字になってわたしの周りをただよってるの。さあどれでも好きなものを自由に選んで、って具合にね。そのとき思ったわ。わたしはとんでもない力を手にしてしまったって。」

「自分が魔法使いであることを初めて自覚した少女みたいな気分だったわ。なんで今までこんな能力に気付かなかったんだろうって。十一歳のときに自分の能力に気付いていたら、ホグワーツにだって行けたかもしれない。実際おもしろいエッセイはたくさん出来たわ。そう、エッセイならね。そこが問題なのよ。だって、それは絶対に人間のセリフにはならないんだもの。」

「エッセイなら簡単なの、私にとってエッセイは頭の中の考えそのもの。考えていることをそのまま書けば、だいたい良い感じのエッセイになるの。だけど、小説として舞台を設定して、登場人物を置いて、これから起きる出来事まで決めて、いざ彼らをその場に立たせてみると、もうなに一つしゃべらないの。」

「びっくりするわよ。彼らだってもう三十歳とか四十歳とか、そこそこ大人の設定よ。良い歳した大人が一言もしゃべらないなんて、そんなこと社会的に許されるわけ?」
「主人公だって私そっくりな設定にしたわよ。最初だもの。そもそも他人の考えてることなんて想像できっこない。だから自分の分身みたいなキャラクターを作り出したの。それでもだめ。てこでもしゃべらない。実際に私が言ったことのあることば、試しにそういうものを書こうとしてみたけど、彼らは舞台に突っ立ったまま何も動かないの。『はい、これは小説です。今から私は小説を書きます。』って枠を決めたとたんに、フリーズしてしまうのよ。」

「最初は人生経験の問題かと思ったわ。ほら私フリーランスで仕事もほとんど在宅じゃない?普段あまりにも人と話さないせいで、会話のパターンが全く蓄積されてないんじゃないかって。人との会話に特有のボキャブラリーがあるんだとしたら、私は英語ができない子供みたいに、語彙力がないせいで会話が書けないんじゃないかって。」

「そこまでして『なんで小説を書きたいの?』と思うわよね。私も思ったわよ。エッセイが書けるならエッセイを極めればいいじゃないって。だけど考えてみて。あなたエッセイストの名前あげられる?お気に入りのエッセイストは? そんなのひとりだって知らないでしょう。じゃあ誰が私のような有象無象のライターのエッセイなんか読むのよ。それも、出版すらされていないWebエッセイを。エッセイっていうのは、憧れの芸能人、お気に入りの作家、漫画家、そういう別の才能を介して誰かのこと好きになった後に、信頼しているその人のささやかな日常を知るために読まれるものなのよ。」

「じゃあ無名の私がどうすればいいかって? 作るしかないの。自力で創作して、好きになってもらうしかないのよ。たとえば小説を。それも、これまでの有名作家の誰よりも優れた小説をね。無名の新人作家っていうのはね、いつだってベテランを超えなければいけないの。経験がないにも関わらずよ。だってそうでしょう。いったいどこの誰が、無名の作家の小説のために、仕事でへとへとになった後、たった数時間の余暇を費やすっていうのよ。そんなギャンブル誰もやりたくないのよ。」

「伊坂幸太郎も読んだわよ。」

「もっと面白いプロットができればセリフが書けると思ったから。 伊坂幸太郎。そう、『 伊 坂 幸 太 郎 を 読 ん だ 』のよ。あの、男しか出てこない、ばかみたいな、ほんとうにばかみたいな小説をね。わざわざ自分で買って読んだの。目を疑ったわ、『 ほ ん と う に 』男しか出てこないんだもの。苦痛でしかなかった、でも最後まで読んだわよ。ごていねいにメモまで取ってね。ストーリー展開ってこういうもの、導入は、オチは、セリフはこんなふうに書く、人物配置は、そういうことをきちんと吸収した。」

「それでちょっといいプロットだってできたわ。聞きたい? いまここで話したっていいけど。マルチ商法の世界のはなしよ。伊坂っぽいでしょう。十個の小見出し、展開、登場人物の生い立ちまで考えたわ。でもね、だめなの。小説っていう枠ができたとたん、それらはしゅわしゅわと消えていってしまうの。綿菓子に水をかけるみたいなものね。もこもことふくれあがったアイディアがどんなに素敵なものであっても、小説という目的を持った瞬間に、文字通りすべてが水の泡になって消えてしまうの。」

長い、と私は思った。そして高い。天井が高い。
私たちは丸の内のアマントーキョーでお茶をしていた。
オフィスビルの建ち並ぶ丸の内には、余剰なスペースなんか無いはずなのに、それを知ってか知らずか、こうしたティールームは吹き抜けを不自然なくらい高くし、無駄に大きな花を飾り、空間をたっぷりと使うことで贅沢を誇示する。空間は金。

そのうち私の意識は高く浮遊し、天井と大きな窓に囲まれた空間に水が満たされた。天井に吊り下げられて浮かぶ無数の小さなペンライトの灯りの一つが、オレンジ色のクリオネの心臓に変わってゆき、私の意識はクリオネの身体に取り込まれて、水の中を瞬間移動できるようになった。一粒のほこりのように小さなクリオネにとって、この天井は無限に感じられるほど広い。私は高速でジグザクと水中を飛び回った。

丸の内にあるビルは、オフィスもホテルも関係なくすべてが同じ設計図にしたがって建てられているような均質さを持つ。
水族館みたい。大きな窓と黒い窓枠、太い柱を見ていると水族館のことを思い出す。規則正しく並んだ水槽。それなら私は今、水槽の中にいる側だな。魚とか魚のような哺乳動物とかがいる、そっち側だ。

クリオネよりももっと大きい動物になれる気がする。たとえばペンギン。外には観客がいる。いやもちろんいない。それは私の意識の中で作りあげた観客であるが、私はそれらの観客に近づき、窓から窓を渡り泳いでくるくると回ってみせたり、右の尾を上げ左の尾を上げ愛嬌を振りまいて観客の歓声を集め、気付けばすっかりこのアマントーキョー水族館のアイドルペンギンになった。

「それで、あるとき思ったの。タブーをおかしてみようって。」
そう言って女は五秒ほど沈黙した。沈黙はすぐ十秒に達した。
突如始まった不自然な沈黙に、私はあわてて意識を手繰りよせ、そうだった、普通の人はこういうタイミングで相槌を打つんだった、と思い出した。

「タブー。」
私は繰り返した。相槌になっているだろうか。

「そう、タブーよ。」
女はまた五秒ほど沈黙した。私はこの女が望んでいること、つまり「タブーってなんなんですか」と尋ねるべきだと理解した。だが永遠に続く女のおしゃべりに疲弊していた私は、今の今、この瞬間から、この女のためには一言も言葉を発しないことを決めた。

私は無言のまま眉と瞼を持ち上げた。「へえ」「続きを聞いてやろうじゃないか」という顔のつもりだ。そのまま女を見て、一度うなずいた。それだけでは無言の決意が伝わらないかもしれないので、ティーカップをソーサーごと持ち上げて紅茶をすすり、「今はちょうどお茶を飲むタイミングなので、言葉を発することができません」というそぶりをした。

「女言葉よ。女言葉を解禁したのよ。」
「ねえ、あなた、女言葉についてどう思う?」
このオープンクエスチョンを無言で乗り切ることができるか、私は一瞬不安になった。鼻から大きく息を吸い込んで右肩をすくめ、「そんな難しい質問に対する回答は、到底持ち合わせていません」という表情をしてみせた。

「最悪よ。そう思わない? あんな言葉で話す女がどこにいるっていうのよ。~~だわ、なんて実際に言ったことある? 言っている人を見たことがある? そういうことよ。女言葉っていうのはね、フィクションのなかでもっとも不自然かつ安直なものなのよ。」

「作家が女言葉を使うのは甘えよ。小説、映画の字幕、歌詞、ぜんぶ同じことなの。そしてそんな甘ったれたことをする作家は、昔から全員男と決まっているわ。ねえ、なぜ男作家が女言葉を使うか知ってる?」

女が調子を取り戻しはじめたので、私は安心してクリオネにもどり、アイドルペンギンになっていたのに、ここへ来てまたオープンクエスチョンである。私は黙っていた。貝。ペンギンの次は貝だ。

「単にやりやすいのよ。小説を書いてみて、いや書こうとしてみてかしら、実際には一言だって書けたわけじゃないから。でもね、小説を書こうとしてみて分かったことがあるの。セリフの区別の問題よ。」

「読者でいるうちはわからないの。作家ってやっぱり文章のプロなのね。セリフを読んでいて、それが誰のセリフかなんて、普通は意識せずに読めるの、読めるように書くの、作家というものは。それでね、自分で書こうとして意識してみると、セリフの後には「僕は言った」とか、そんな説明があることに気付くの。もう一つ気付いたことがあるわ。すべてのセリフにそんなもの付けてられないってことよ。ダサいから。どう考えてもダサいの、情緒ゼロ。だから、誰が言ったか明確に区別できるセリフには、説明は付けないの。そうしたら次に、作家たちはどうすれば説明を減らすことができるか考え始めるのよ。」

「それでね、女言葉ほど便利なものはないということに気付くの。男と女、お話っていうのはだいたい、男がひとり、女がひとりいたらそれで成立するものなのよ。それで男と女がいて、片方が普通の、そうごく普通の『プレーンな』言葉で話し、もう片方が女言葉で話す。そうしたらもう、誰が何を言ったかなんて迷う必要はなくなるの。」

「問題はね、いつだって男が『プレーン』だってことよ。男がプレーンで、女はそれに何かを足したもの。言葉だけじゃないわ。この社会はすべてがそうなっているの。男が棒人間、ジンジャーブレッドのアニメ絵みたいなものだとしたら、それにおっぱいを足し、長い髪を足し、化粧を足し、腰に丸みを足したもの、それが女の定義だってことになっているの、されているのよ。」

「男を標準にしているってこと。男がプレーンなクッキーで、女はチョコチップとか、色んなトッピングを足したもの。それで男は言うのよ、『いやぁ、女性は豪華なチョコチップクッキーでいいですねぇ、僕らなんて何の変哲もないただのプレーンですよ。』 当たり前よ、チョコチップの方がいいに決まってるじゃない。チョコチップとプレーンがあって、誰がプレーンクッキーなんて選ぶのよ。でもね、それはクッキーに関することだけなの。」

「白米にチョコチップかける?うどんにチョコチップ入れる? しないでしょう。気持ち悪くて仕方ないわよ。白米にかけるのはふりかけ、うどんに足すのはネギ。トッピングっていうのはね、あってもなくても困らないような取るに足りないものなのに、どうしたって使いまわせないの。それで、こういう時はあれ、違う場合にはこれ、そんなふうに些細なものに永遠と時間を労力を費やしてる。それでね、トッピングのことばかり考えていると、絶対に主食にはなれないの。それが女でいるってことなのよ。」

「小説を書いていて気付かないはずがないの、彼らは分かってやっているのよ。男がプレーン、主食は渡さないぞ、っていう意志ね。いや無意識かもしれない。そんなことは私には分からないわよ。でもね、それは映画でも同じことよ。字幕はたいていテンポが遅れるから、誰のセリフか分からなくなるの。だから必ず誰かにトッピングを持たせるの。」

「絶対に女言葉なんか使わないって思ってたわ。そんなことしたら、若いフェミニストたちにつるし上げにされるわよ。実際あるのよ。Twitterとかで、ほら、『映画の同じ場面、Netflixの字幕は普通の言葉、Amazonの字幕は女言葉。Amazonは感度低すぎ。』とか拡散されるの。いかにもじゃない。彼女たちがもし私の本を立ち読みして、こんなふうに女言葉でまくし立てているセリフのページを開いたもんなら、気持ち悪いと批評するでしょうね。そして大いに私のことを見下すと思うわ。」

「だけどね、私は小説が書けなかった。セリフが、なに一つ書けなかったのよ。それでもう何でもするって思ったわ。セリフが書けるなら山の中で泥水にストローをつけて飲んでもいい、目の前の人間の脳みそを切り開いて焼いて食べてもいいって、そんなことまで考えていたの。それであるときふと、女言葉を使うことを思いついた。」

「そんなことしたかった訳じゃないの。自分でも変なことを思いつくもんだと思うわ。でもね、これがてきめんだったのよ。もう頭の中で声が止まらなくなったの。女言葉なんていうこの上なくおかしなものを取り込んだ途端に、意識が自分から切り離されて、セリフでもなんでも人が好き勝手に話しはじめるの。書き留めるのが追いつかないぐらいにね。水を得た魚みたいだったわ。いや、違うかも、もっと早いの。クリオネよ。北極の海を飛び回るクリオネみたいだったわ。」

クリオネ? 私は驚いた。今、この女はクリオネと言ったか?
私はまたクリオネに戻った。だけどこの女は、北極の広大な海に暮らすクリオネだったらしい。いいな。私もこんなでっち上げのアマントーキョー水族館ごときでなく、北極の真っ白な流氷の隙間に暮らすクリオネになりたい。地球でいちばん冷たい海の中、私は大きなクジラに追いかけられても、何処でも瞬間移動できる。なにも怖くない。

水の過冷却について思い出す。水は毎回きっちりと零度で凍るわけではない。もっと低い温度、マイナス四度とか、氷点下を下回ってもなお液体のままでいることがある。外からの刺激がなく静かに過冷却された水は、何かのきっかけで一気にばりばりばりと凝固しはじめる。北極の流氷に覆われた海は、どこまでが氷でどこまでが水か区別がつかない。水はいつ氷になってもおかしくないけど、私はクリオネだから水面を乱さずに海の中を動き回ることができる。マイナス四度の冷たさが身体に染み渡る。私は半透明に透き通る白い身体と、蛍光を放つ鮮やかなオレンジ色の心臓を持つ小さなクリオネ。こんなにも気持ちのよいものはない。大きな魚ではそうはいかない。

「女言葉を使うことにはもちろん葛藤があったわ。ほんとうにこれをすべきなんだろうかってね。だけど冷静に考えたら、これを男たちは何の迷いもなく使っているのよ。」

「だから私思ったの。逆にどうして使っちゃいけないんだろうって。どうして男が自由に女言葉を使うのに、女だけが女言葉を使えないんだろうって。」

「無神経な人たちはね、なんでもできるのよ。なにも躊躇うことはないの。罪悪感なんか感じることはないのよ。だって考えてみてよ。資産家に生まれた子どもが、貧乏な家庭の子どもに遠慮してお金を使わないなんてことある? 資産家の元に生まれた子はみな、お金を目一杯使うのよ。お金を目一杯使って勉強、留学、旅行、そんなものをひと通りやって満足してから、その後、急に思い出したように「社会に貢献」なんかを思いつくの。人生はお金じゃないとか言ってね。そういうもんでしょう。それでも社会貢献したいと思っているだけマシよ。ポルシェ買うとか、次は自分の子どもにも同じようにお金を使わせたいとか、そんなふうに考えている人はごまんといるわよ。」

「使えばいいのよ、女言葉を。私だって使えばよかった。むしろなんで使っていなかったの? そりゃあ正しくはないわよ。でもね、持ち物があるなら使えばいい、いまではそう思うのよ。完璧に正しくなんて生きていられないの。正しくいる必要だってないのよ。そんな正しさを突き詰めて、なんにも、セリフの一つすら生み出せないまま、同じところに立ち止まってフリーズしているよりも、正しくないセリフを百個書いたほうがマシなの。そう思わない?」

11月、まだ三時を過ぎたばかりなのに、もう西日が斜めに差し込んでくる。光は真っ直ぐにしか進めないから、この高層ビルの隙間をどうやってかき分けてここまで届いているのか分からないけど、この大きな窓にもオレンジ色の光が届く。冷たい空気と暖かい夕日。いや、まだ夕日ではない。夕日になる前の夕日の赤ちゃん。隣のビルは縦半分だけが照らされて、車のボンネットに反射する。黄緑色に発光する街路樹。冬の午後は私がいちばん好きな時間だ。

「私は冬の午後がいちばん好き。」
声に出すつもりはなかった。そもそも言葉を発してしまったこと自体が間違いだ。

女は一瞬おどろいた顔をした。何かを言いかけたが、その後顔をゆるませて微笑んだ。
私も微笑んだ。私たちはティーポットごと紅茶をおかわりして、黙ったままそれを飲んだ。


「また連絡するわ。」
店を出たときはもう日が落ちていた。暗くなる前の紺色の空と大きな月、見えそうで見えない星。私は冬の夜も好き。

「ええ、また。」
女と別れたあと、私は「女言葉」とつぶやきながら駅まで歩いた。通りかかったひとりのスーツの男性がこちらを一瞬振り返ったが、独り言をいう女を見たのが初めてだとでもいうように私のことを見なかったふりをした。独り言をいう女が初めてだいう男に会う方が初めてだ、と私は思った。

私はつぎに「女言葉をつかってもいい」とつぶやいた。あたりにはもう誰もいなかった。

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