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年を取るほど幸せに近づく

こんにちは。
50歳を前に急激な老眼になってしまい、落ち込んでいます。
今やパソコンの字もぼやぼやしてイライラするので老眼鏡が欠かせません。
何せ、視力がいい、というのだけは取り柄で、学生のうちは両目とも2.0をキープ。取り寄せていた地方新聞が読者に寄り添ってより見やすく、活字を大きくしたと言われてもなんじゃそれ、と思っていた若かりし日々。

白髪も老眼も、初めて「老い」を身を持って感じる体験がある日来るんですね。

年を取ると、隠す、補うことに必死になっていく。
最近はありのままであえてのナチュラル志向の方々もいますが、他人を意識していたお化粧やヘアカラーから、老いを感じ始めると自分が落ち込みたくないからシミを隠し、皺を伸ばし、白髪を染める、自分に意識が向いていくのが面白い。

他人にどう思われるか、という意識から年を取ると自分はどうありたいか、という意識の転換が起きます。それって生きてきた変化、というか進化なのではないでしょうか。

外見的なことと同時に、日光東照宮の「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿のように、年を重ねることで、この三猿を意識しないといけないなぁ、とも思います。

視力低下による見えなさもあってか、見なくていいものは見なくていい。知らぬが仏。目に見えることより、目に見えない心を感じることの方が大事。

また、言う、ということについては自発的な行為だけに意識を向けて慎んでいかないと、年を取ると大変なことになります。自分の体から発する「言う」という行為は、非常に注意を払わないと相手を不快にしたり、悪口は自分の体から発するので自分が受ける悪影響は多大です。

最後に、人は死ぬ瞬間まで耳が聞こえていると言われています。赤ちゃんも、胎児の時から外部の音やお母さんの声を聞いてる。それくらい聞くというのは人間の機能としてまずありきなのでしょう。
しかし、この聞く、というのも何を聞くか、で受ける影響は多大です。聞くという行為は無意識にあくまで受動的なので、自分にプラスよりマイナスなことも多い。ですから、何を聞きたいか、何を聞きたくないのか、注意深くチューニングしていかないと受け入れすぎると自然と心を蝕んでいくのです。

この三猿による意識がないと心理的ストレスで心まで老化しかねないのです。
逆に、全ての情報にビンビンになっていた若かりし時より、どんどん自分を狭めていくようだけど、自分に意識を向けて、三猿を念頭に生きることでどんどんストレスから解放され、自由になっていくような気もします。

そう思うと、これからますます生きるのが楽になるでしょう。
年は取ってみるもの、とは言ったのもので、見方、言い方、聞き方が変わっていく。それは自分らしく、自分を解放させることで究極の幸せに近づくことなんじゃないかなぁ。

日々是感謝 羊


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