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SMに興味ありませんか?(情念シリーズ①)

この作品には若干ですが、性的な表現が含まれております。
苦手な方は、どうか続きをご覧になりませんように。


「S Mに興味はありませんか?」
その子は上目遣いで言った。

職場の飲み会。お酒が苦手な僕は、二次会を遠慮して、駅に向かっていた。
後ろからついてくる影がある。最近入職した後輩だ。名前もまだ覚えてはいなかった。
僕は歩調を少しだけ遅くした。女の子の夜の一人歩きは危ないから。

「私もこっちなんです。」
程なく僕に追いつくと、彼女はあどけない顔に笑顔を浮かべて言う。
(駅がこっちだもんなあ)、と思う。

「先輩、もう帰っちゃうんですか?」

「うん。明日も早いからね。」

「お茶だけ付き合ってもらえませんか?」

「お茶だけなら、いいよ。」
なぜこう言ったのかは覚えていない。本当は一刻も早く帰って眠りたかったはずなのだが。

夜遅くの喫茶店。周りはカップルでいっぱいだ。ほんの少し、居心地の悪さを感じた僕の前に、熱いコーヒーが運ばれる。(失敗だったか。寝れなくなるかな。)

僕自身の多少迷惑を被っている気分をよそに、後輩は自分のバッグを何やらゴソゴソし始め、スケッチブックのようなものを取り出した。

「これを見ていただきたくて。」
上気した顔で、それに続いて言ったのが、「S Mに興味はありませんか?」だった。

そのスケッチブックには、目隠しされ、縛られ、あるいは鞭打ちされる女性の姿が黒々と描かれていた。絵面としてはボンデージの衣装や、網タイツを履いた数々の女性たちが責め苦にあっている異様な光景ではあったが、そのタッチの拙さが、描かれている世界とはアンバランスで、そこにむしろエロスを感じた。それはまるでその後輩の未熟さ、不安定さを表しているかのようだった。

そもそも、プライベートでほとんど話したこともない僕を捕まえて、どうしてこれを見せたかったのだろう?僕はその方面に明るい人間に見えるのだろうか?
「家にはまだこういうのたくさんあるんです。それから、グッズも。興味があったら見にきていただけませんか?」

後輩は伏し目がちに続ける。前髪で、その表情は読み取れない。比較的豊満な肉体、その胸元が目に入る。いけない、と目をそらしながらも僕はその子を縛る自分の姿を夢想する。だが、、。やはりこのような展開はおかしすぎる。唐突すぎる。脈絡がなさすぎる。

「上手だね、そして、面白い趣味だね。僕はそういう方面のことあまり知らなくて。今のところ、興味があるとは言えないかなあ。」

ようやくそれだけを絞り出し、僕はまさしく逃げるように喫茶店を後にした。
趣味は趣味として、否定するつもりもない。興味も全くないわけではない。だが、これは自分の人生にわかりやすい形で現れたワナだと思った。その子が自分をワナに嵌めようとした、という意味ではないが。

そんなことがあった事は誰にも言わなかったが、その後その後輩は、同僚の女性たちにいじめられて、退職してしまった。そう言ういじめられ方は好きではなかったようだ。当たり前だが。

僕があの時、適切にあの子を虐めていたら、愛を持って虐めていたら、その子の未来は少しは変わったろうか。

&&&

「先生、どうですか?実体験を踏まえて書いてみたのですが。」

「全く、つまらん。」
先生は一言で切り捨てた。
腕組みした両腕の筋肉。その隆起と細かい振動が、先生の憤りを表していた。

「何の情念もない。だから君の作品はダメなんだ。どうしてその世界に飛び込まなかったんだ?知らない世界を見てみようと思わなかったのか?そのあどけない子を自分の思いのままにしようと思わなかったのかね!?実際、君の作品にはパトスもエロスもない。屈折もしていないし、コンプレックスもない。ないないづくしだ。よくこんな話をワシの前に持って来れたものだ。」

「ですが、、。」

「ですがもよすがもない!」
先生は僕に反論を許さない。

以前、(しかしもカカシもない!)と怒られたことがあったので、(ですが)と反論してみたが、今度は(ですがもよすがもない!)か。さすが先生だ。表現の宝石箱だ。心にメモする。

「君の作品では、人が死んだことがない。それどころか、激しく苦悩したり、嫉妬したり、欲情に塗れたりする人物すら出てこない。歓喜も慟哭もない。全く平板だ。気持ち悪い。そもそも君自身に世の中に訴えたい事が何もないからだ。地に落ちたことも、天上に登ったこともないからだ。それなのになぜ、物語を書きたいのか。さっぱりわからん。君は文章で人を傷つけたくもないのだろう。だが、それでは人の気持ちを動かすことなどできるはずがない。今、煉獄で足掻いている人の気持ちを動かせるのは、同じ煉獄にいる人間の叫び声だけだからだ。表現というナイフを持ちながら、君はそのナイフの腹で優しく他人の表面をなぞるだけ。決してそれで何かを突き刺したり、抉ったりすることもない。何度でも言う。君には情念がない。小説家には向かない。何度でも言う。気持ち悪い。それならお子様向けの物語でも書けばいいと思うが、どう見てもお子様にはわからん変な蘊蓄だけは入っていたりする。始末におえん。処置なしだ!」

今日の先生のお説教はいつもよりも長い。

「君はそもそも、挫折と言うものを知らん。そこそこの家に生まれ、そこそこの学校をでて、そこそこの収入を得て、そこそこの仕事についている。人からは慕われ、陰口を叩くものもなく、容姿にも恵まれ、背が高いばかりか一物まで大きい。さらに心優しく、全くのお人好しときている。そんな君が、、そんな君が、、、。」

先生の瞳孔が大きく開き、鼻腔からは荒い息が烈風のごとく吹き出した。

「ワシは大好きじゃああああ!!!!」

先生は僕を組み敷き、僕の唇に猛烈な口付けを見舞った。何とか閉じようとしている唇を、先生の荒々しい舌がこじ開ける。程なく、僕の脳が痺れ始める。力が抜ける。

「いいか。真の劣情を、性愛を、情念というものを教えてくれる。」

先生の太い腕は、僕の自由を奪ったままだ。僕は生まれたままの姿に近づいていく。
(それはパワハラ、かつセクハラです)のキラーワードを放つ間も与えられない。

「何度でも言う。好きじゃ、好きじゃ、好きじゃああ!」
耳元で呪文のように弛まなく浴びせられる甘い言葉が、雨だれが岩を穿つように徐々に肉体の鎧を貫通し、僕の心を犯し始める。

僕は先生を小説家としてこの上なく尊敬している。だが、これとそれとは話が別のはずだ。
はずなのに、、。

先生はその情念の全てを僕の中に放った。その瞬間、意識は途切れ、気がつけば僕は、一糸纏わぬ姿で先生の胸に埋もれていた。先生は賢者の眼でキセルをふかしている。

…「情念」と言うものの片鱗を、僕は知った気がした。これで僕は小説家になれるのだろうか。憧れていた、小説家に、、。

(了)

「こんな感じでどうでしょう?」

「君はなんか勘違いをしておるぞ。この理屈では、『人殺し』を描くためには人を殺さねばならぬと言うことになってしまうではないか。それに、ワシの弟子筋と言うことを公言している君がこれを発表したら、ワシは要らぬ誤解を受けてしまう。」

「『フィクションです。』と書いておきますよ。ご心配なく。」

「そうか、、ならば、、。」
先生は上気した目で僕を見つめた。心なしか、息が荒い。

「ほんとに、ワシに興味ない?」

…僕はこの誘いに乗るべきだろうか?

(了)

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