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「ゆのさと」のサキ

 中型のバスが国道から山手の方に右折すると、ほどなく道は狭くなり、田園風景が広がり始める。左手に細い川。冬場にはその川面から湯気が立つのが見える。バスはガタピシと揺れながら上流へと進む。対向車が来たらどうするのだろう、と不安になるくらい道が細くなる頃、ようやく終点に到着する。かろうじて「タカシロ温泉郷」と読める錆びた看板がある以外には、そこには何もない。バスは10分ほど寂しげに留まり、乗客を待っているが、大抵空っぽで元来た道を帰る。次に来るのは3時間後だ。

 バス停から歩いて小さな橋を渡ると、川沿いには気持ち程度の商店街がある。商店街を抜けると、右手に鳥居が見え、人家も途切れ途切れになる。集落の一番外れにチエの切り盛りする温泉宿「ゆのさと」はあった。

 かつては小さいながらも「温泉街」としてそれなりに観光客もあったこの町ではあるが、高齢化に伴い、温泉宿も一つ、二つと閉まり、まもなく還暦を迎えるチエの切り盛りするこの宿だけが残った。夫に先立たれて20年、ここを守ってきたことがチエの誇りであり、人生そのものでもある。

 「温泉宿」というと聞こえがいいが、今や宿泊の客はなく、地元の住民や温泉好きが立ち寄りで湯船につかるばかり。従業員もパート数名を除けば、3年ほど前から住み込みで働いているサキだけである。働き者だが、愛想のない子。子のないチエにとって唯一、肉親に近い感情を持つ存在だった。

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 粗末なサッシ窓が付いている受付に、「入湯料300円」と手書きされた粗末な看板がある。まだ夜も開けぬ寒い朝、受付の奥の和室でチエは一人こたつに当たっていた。サキはまだ掃除をしているはずだ。温泉宿の仕事は掃除に始まり、掃除に終わる。

 サキはまだ30前に見えたが、実際のところいくつになるのか知らない。ある日ふらりと「ゆのさと」に現れ、「給与はいくらでも構わないから、住み込みで働かせてくれませんか」と頼んできた。こんな寂れた温泉街に働き口を求めてくるのだから、訳ありの子なのだろう。チエ自身、今まで何度かそういう「人に言えない事情」を持った女性を雇った経験があり、多くは詮索しなかった。どうせ今までの子と同じように長くは続かないだろうと踏んでいた。

「お姉ちゃん、新入りさん?こっち来て一緒に入らんか?」

「いつ仕事はあがり?今夜一杯奢ってあげようか?」

 この程度の声かけは日常茶飯事である。湯温が熱すぎるから埋めろ、だの、微温すぎるからどうにかしろ、だの、何かにつけて男子浴場にサキは呼ばれた。若い子が一度は受ける洗礼と言ってもいいが、肉感的な体を持つサキだからなおさらかもしれない。中にはこれ見よがしに大したこともない一物を見せつけにかかる客までいる。

 サキはそれらを無言でいなした。男性器を見せつけられても嫌な顔も、おぼこい反応も見せなかったし、愛想笑いをするわけでもなかった。ただ淡々と熱い湯を埋め、湯船を掃除し、風呂桶と椅子を洗っては重ねた。温泉宿の仕事は純粋な肉体労働。それを淡々とこなすサキの姿には勤労の喜びも、労働に倦んだ様子も見てとることはできなかった。ただ、あの日からサキは当たり前のように「ゆのさと」に留まり、今日もまた朝から働いている。

 「ゆのさと」に来た頃のサキの様子を思い浮かべながら、チエは背中を丸め、一つ大きなため息をついた。

(2000万、ねえ、、。)

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「こりゃあ、無理だ。どうしても揚げられないです、、。」

 イナモリ建設のタビラは諦め顔でチエにそう告げた。彼なりに努力はしてくれた事は、ヘルメットの下の汗だくの顔が物語ってはいた。

 チエが夫を亡くしてから20年、「ゆのさと」の温泉ポンプは飽くことなく地下120mから温泉を汲み上げてきた。鉄分、塩分、炭酸を豊富に含んだ赤いお湯。体の芯から温まり、血の巡りが良くなると、利用者には喜ばれている。

 長きに渡り地下で孤独な単純作業を続けていたポンプは、まもなくその寿命を終えようとしている。最近明らかに揚水量が低下し、不安定になってきているのだ。むしろ良く持った方だと言えるのかもしれない。新しいポンプへの替え時だ。

 地下400m程度にあるタカシロ温泉付近の泉源。そこまでボーリングで掘った穴に沿って、径15cm程の「ケーシング」と言われる土管が延々と埋められ、土圧で潰れるのを防いでいる。ケーシングの中で、温泉の水位は地下70m付近まで上昇しているが、それを汲み上げるために内径ギリギリの大きさのポンプが地下100m付近に設置してある。ポンプに溶接された径5cm程の揚水管が地上まで伸びて、「ゆのさと」に温泉を供給する。

 ポンプの交換の際にはこの揚水管にクレーンを繋いで引き上げるのだが、ここで問題が生じた。2トンの荷重でもびくとも動かないのだ。

「なんとかならないの?もう少し力をかけられない?」

「これでも何度か、ギリギリの荷重でやったんですよ。これ以上やると、クレーンが倒れるか、最悪ポンプが壊れちまいます。」

「なんでそんなことに、、。」

「地下100mのことですからね。見に行くわけにいかないし、想像なのですが、、。」

 タビラの推測では、鉄分に富んだ温泉の成分で、ポンプが錆び付いて周囲のケーシングと固着し、一体化してしまった、というのである。温泉街が寂れ、客が減ってきた時期でもあり、ポンプ代を含めた交換費用300万を捻出するのは簡単なことではなかった。ついつい、10−15年で済ませておくべきだったポンプ交換を、「あと少し、もう少し、、。」と先延ばしにしてきた事が仇になった。

 「ポンプが持ち上がらない」。意味するところは明白だった。今のポンプが稼働を終える時が、「ゆのさと」を閉める時、ということである。

 新しくボーリングし直すとしたら、費用は2000万円。タビラは言いにくそうにそう告げると、「ゆのさと」を後にした。

 「人は血管から老いる」という。「ゆのさと」はその血管から知らず知らずのうちに老いていた。チエもまた、自らの老いを感じた。10年前の自分なら、無理にでも大きなクレーンを頼んでポンプを引っ張り上げようとしたかもしれない。だが、最悪持ち上がらないまま地下のポンプが破損してしまった場合、今かろうじて維持できている温泉の供給までが途絶えてしまうかもしれない。

 現状を壊したくない。新しい穴を掘るだけの費用は捻出する宛もない。このまま20年稼働してきたポンプが寿命を終えるまで、細々と「ゆのさと」を続けていくしかないのだろうか。

 (自分はそれでいい。)

 ただ一人の従業員、まだ若いサキはどう思うのだろう。

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「そうですか。」
 サキは表情一つ変えなかった。

「ほんとにすまないね、心配をかけることになってしまって。わたしが交換を先伸ばしにしたから、、。」

「女将さんは悪くありません。」

「この先ポンプがどれくらいもつのか、誰にもわからないんだよ。もし、動かなくなった時には『ゆのさと』もおしまいだ。サキ。あなたは本当によく働いてくれた。おかげでここまでやって来れたと思ってるんだよ。この先の事は、わたしができる限り後押しするよ。ポンプが止まった時の身の振り方、よく考えておいておくれね。」

「わかりました。掃除がまだ残っていますから。」

 チエに一礼すると、サキはきびすを返し、湯殿の方に立ち去った。機敏な動きで歩き去る背中はまだ若々しかった。その若さを目にしたチエには、言えなかった。

 「いかないでおくれ、ここにわたしと一緒にいておくれ。」などとは。

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 祖父の代から続いた建設会社も温泉街の衰退と共に、仕事の量も質も変わってきた。今やさく井工事を請け負うことはほとんどなくなっている。こんなはずじゃなかった、とは思うが、時代の流れなのかも知れない。

 作業員が帰宅した事務所で、タビラはヘルメットを脱ぎ、ロングピースを取り出すと、100円ライターで火を灯した。車で20分ほど走った先にあるコンビニで買ってきた弁当を開き、缶ビールで喉の渇きを潤す。どうせ、帰っても待っている家族がいるわけではない。

「どなたですか?」
 事務所の窓に人影を見つけ、声をかけた。慌てて灰皿がわりの空き缶と間違えて、さっき開けたばかりのビール缶に灰を落としてしまったことに気づき、舌打ちする。

「あ、あんたは、、。」

 事務所の外開きの薄いドアを開けると、見覚えのある女が立っていた。長髪、黒々とした瞳、白いTシャツにジーンズの簡素な服装では覆い隠せない肉感的な体、、。

「『ゆのさと』の、、。」

 女はにこりともしない。

「何かご用ですかね?」

「ポンプの件、どうにかなりませんか?」
 女は単刀直入にここにきた要件だけを切り出した。

「どうにかしてあげたいのはヤマヤマなんだけどねえ、、。あれ以上の力で引っ張るとポンプが壊れちゃう。壊れたらお宅はすぐ廃業。新しい穴を掘ることも難しい。こうなると、今のポンプをできるだけもたせる、しかなくなるよねえ、、。」

 まあ、座りなよ、という風にパイプ椅子を勧めながら、タビラは状況を説明した。女将のチエにはすでに説明した内容ではあるのだが、久しぶりに若い女性と話すのも悪くはない。もう少し愛想があれば、手放しで美人と呼べるのだが。

「そこまでは女将さんから聞きました。引っ張るのが無理なら、押すことはできませんか?」

「なに?」
 <素人が何を言う>と喉元まででかけた。(押す!? 押すだと!? この女、何をいってるんだ!?)

 が、その時タビラの脳裏に電光のように映像が浮かんだ。揚水管の上に組み上げられたヤグラの映像が。

「‥‥‥お姉さん、その知恵はどこから浮かんだんだい?」

「押してもダメなら引いてみろ、の逆です。素人の考えです。」
 怪訝な顔で問うタビラに、女は無愛想に答えた。

「押す、か。‥‥‥できないでもない。でも、少し費用はかかるよ。」
 タビラの頭の中で、図面がひかれていく。なんでこんな簡単なことを思いつかなかったんだ。俺は。

「ここに50万あります。」
 女は机の上に置いたバッグから裸の札束を取り出すと、それには何の興味もないかのように、タビラの方に押しやった。

「ずいぶん貯めたね。でも、それで足りるかどうか、、。。」
 頭の中で忙しく試算するタビラにかぶせるように、女は言い放った。

「足りない分は、体で払います。好きにしてもらって大丈夫です。私にそれだけの価値があれば、ですが。ちなみに、私、上手です。」
驚いて女の顔を見ると、黒い瞳がなお暗い光を湛えて、真っ直ぐにタビラを見つめていた。

 (馬鹿にするな!)と言いたかった。だが、そう言うには女の体は肉感的過ぎた。久しくそんな女に触れていなかった。バレないように、生唾を飲み込んだ。

 間髪入れずそのような提案をしてくるとは、この女は今までそうやって世の中を渡ってきたのだろうか。そうして、何人の男を喜ばせ、あるいは手玉にとったのか。何人の男たちを、その暗い瞳で見つめてきたのか。

「わかった。」
 少しの沈黙の後、タビラはそう言った。

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「カーン」、「カーン」。
 時代から取り残された温泉街に金属的な音が響く。
 ポンプに繋がれた揚水管。その上に高さ2m程のヤグラが組まれた。ヤグラからは垂直に50キロ程の鉄製の錘が揚水管の上を目掛けて落とされる。これが槌の役割をはたす。衝突の衝撃は計算上1トンにもなるだろう。

<三度錘を落とした後、クレーンで1トンの荷重をかけて、上方に引っ張る。>

 これを繰り返すことで、少しずつ固着部分が劣化し、ケーシングからポンプが外れるのではないか。これがタビラの計画だった。諦めずに何度でも繰り返すことを決めていた。

「本当にありがとうございます。わたし、あのまま諦めるところでした。『歳をとった』って事なんでしょうかねえ、、。貴方のおかげで、もしこれがうまくいかなくても、『何かを試してみた』と言う気持ちにはなれます。」
 チエが近づいてきて、頭を下げる。

「いや、サキさんですよ。礼なら彼女に言ってください。僕も同じく、諦めてたんです。彼女だけが、素人ながらも最後の最後まで諦めずに可能性を考えていた。それほど彼女はここを離れたくなかったのでしょう。」

「まあ、、。」
 チエの顔に微笑みが浮かんだ。美人で評判の若女将だった頃の微笑みが。

「僕も知らないうちに錆びていたのかもしれません。あのポンプのように。毎日の仕事をこなす事で満足していたのです。『できない事はできない』で済ませることに慣れてしまっていました。これくらいのこと、もっと早く思いついてもよかったのに。こういう仕事ができて、僕は嬉しいんですよ。久しぶりに熱くなっています。」

 あの50万、サキが給金の中から貯めていたお金は、将来の「ゆのさと」への投資のためだったのだろうと思った。時代に取り残された温泉街の、文字通りさびれた温泉宿の中で、彼女だけが将来に何かを夢見て、備えていたのだ。それを若さ、と言うのだろうか。それとも、彼女の苦い過去が関係しているのだろうか。サキは何も語らない。

 彼女を抱かなかったことに後悔はない。人形に興味は持てない。例え「上手」だとしても、暗い瞳の女は抱けない。もし、新しいポンプから「ゆのさと」に温泉が供給されるようなことがあれば、その時がくれば、、。もしかしたら彼女の瞳にささやかな火を灯してあげることができるかもしれない。今はそれで十分だ。

 いつかその先があるならば、固く閉ざした彼女の心に、体に、改めて俺自身の熱い湯を流し、隅々まで満たしてやりたい。その時は、彼女の過去が流れ去るくらいの大汗をかかせてやる。

「カーン!」
 なんだか卑猥な妄想をしてしまったタビラの耳に、膠着した「今」を撃ち抜く槌の音が響く。


 電光のように「お坊さんの喝」の映像が浮かび、タビラはハッと身をすくめた。

(了)


あけましておめでとうございます。本年も折に触れて拙い物語を投稿していこうと思っております。皆様におかれましても、どうか良い一年になりますように。

読んでいただけるだけで、丸儲けです。