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シジュウイン・クチサトのタンス

風がまだ冷たい春のある日、事件は起きた。
「名探偵」、シジュウイン・クチサトからの救難信号を受けて、同じく「名探偵」であるウチムラ・リンタロウは彼の住むアパートに急行する。

「これはこれは。控えめに言って、『事件』だね。」

部屋に上がり込むなり、素早く白手袋をはめると早速現場検証に入るウチムラ。シジュウインは床に倒れたまま、ピクリとも動けない。普段はクールな彼の顔に苦悶の表情が、額には玉の汗が浮かんでいる。

「君ほどの男をここまで痛めつけるとは、、。何があった?」

「俺としたことが、へましちまった。実は、、。」
苦しげに状況を説明しようとするシジュウインをウチムラは鋭く制した。

「皆まで言うな!僕は探偵だ。任せておけばいい。」

(聞いておいてなんなんだ!?)とシジュウインは思ったが、せっかく救護に来てくれたウチムラに水をさすわけにもいかない。手順はどうあれ、早く助けて欲しい。

ウチムラは素早く部屋の隅々まで視線を送る。その走査するような眼差しは、大きな木製のタンスの上で止まった。

男の一人暮らしには似合わない、立派なタンス。服装に関する彼のこだわりが見て取れる。上から三段目、五段目の引き出しは半ばまで引き出されている。さらに一番下の段が完全に閉まった状態からは僅かにずれているのが見てとれた。

ウチムラは部屋の中をグルグル歩き回りながら、独り言のように推理を展開し始める。

「凶器はタンス、か。だが、三段目ってことはありえない。五段目もないだろう。やはり本命は一番下、か、、。僅か数センチだけ引き出されたそのわけは?三段目の引き出しにはTシャツ、五段目は、、なんと!セーター類。と言うことは!」

天啓を受けたウチムラは口元に微笑みを浮かべた。おもむろに懐からパイポを取り出すと、それを右手で優雅に回転させ始める。推理が終わった証拠だ。大団円は近い。

(ちっ、こんなところでパイポの回転を見る羽目になるとは。)

シジュウインの苦悶の表情に、悔しそうな色が加わる。御託はいいから、とにかく早く助けてほしい。

ウチムラのパイポの回転とともに複雑に絡み合った因果の糸が少しずつ解き解され、真相は明らかになっていく。

「君はタンスの中の『何か』を探していた。とっておきのトレーナーかもしれない。あるいは変装のための道具かもしれない。いずれにせよ、普段着まわしているわけではない『何か』だ。それが何であったかは、ここでは問題ではない。」

(何を探していたかは、たとえこの身が引き裂かれても言えん。)シジュウインは、「問題ではない」の一言にホッとした。

ウチムラの推理は、つい先刻のシジュウインの動きを再現しながら進んでいく。
「君はまず、上から三段目の引き出しを調べた。だが、そこには目的のものが見当たらない。舌打ちをして、五段目の引き出しの捜査に取り掛かった。そこにはあろうことか、セーターが入っていた。君はまたもや舌打ちをする。」

(普段そんなに俺って舌打ちしてた!?)シジュウインは反省した。

「そして君は、一番下の引き出しに取り掛かった。その時だ!」
ウチムラはタンスに蹲うように前屈みとなり、その一番下の引き出しに指をかけた。

「問題は五段目に並べてあったセーターだ、、。開けた瞬間に部屋に舞ったウールの断片が、、ふわふわの毛が、、あるいふぁそれに付着したかふんが、、。あるいふぁ、、、。」

舞い上がった微細な繊維とそれに付着した花粉がウチムラの鼻粘膜に到達し、粘膜局所でのヒスタミンの遊離を刺激する。遊離されたヒスタミン、もしくは鼻粘膜厚受容器への直接刺激は、粘膜局所の知覚を支配する三叉神経の求心性インパルスを誘発した。誘発された電気信号は瞬時に三叉神経脊髄路核から、延髄外側の「くしゃみ中枢」へとリレーされ、最終的に遠心性の呼気、吸気に関わる運動ニューロンを激しく興奮させた。

「ファーーークション!!!」
ウチムラは下の段に手をかけたまま、音速のくしゃみを放つ。

前屈みの姿勢によって生じた体幹の筋肉の腹―背方向ベクトルの一過性不均衡に「くしゃみ」による高速の筋肉の痙攣が加わり、結果生成された第二腰椎を中心としたモーメントは、ウチムラの腰部を構成する筋肉の筋肉、筋膜、靱帯に一時的な断裂を引き起こした。「急性腰痛症」、俗にいう、「ぎっくり腰」だ。

「これが、、真相だ、、。」

ウチムラは、シジュウインの隣に倒れ伏し、同じくピクリとも動けなくなった。

「タンスの下の段を開けるときには、決してくしゃみをしてはいけない、ということだね、、。学習とは時に、痛みを伴うものだ。」

引きつった笑顔のウチムラに対抗するようにシジュウインはニヒルな笑みを浮かべ、尋ねた。

「ミイラ取りがなんとやらか。ところでウチムラ、コマエダの電話番号、知らないか?」

(了)

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