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「網羅主義」が日本を後進国にする

かねてより「網羅主義」が、日本社会を覆い尽くしているように思う。網羅主義というのは、「できるだけたくさんの情報を集め、できるだけたくさんの選択肢を検討すれば、正しい解にたどり着ける可能性が上がる」という考え方のことだ。

日本の大企業や、古い組織は、ほとんど全て、この網羅主義に染まっているように感じる。そして、その考えに染まると答えがそれしかないように思うのがこの習慣の特徴だ。

先日も、日本高野連の理事会が、新潟県高野連が独自に決めた決定を差し戻す際に、「多角的に検討すべき」というフレーズが飛び出した。

「日本高野連、新潟の球数制限導入を再考要請」https://www.sanspo.com/baseball/news/20190221/hig19022105020001-n1.html

多角的に検討、という言葉は網羅主義を表す典型的なフレーズである。
網羅主義には以下のような欠点がある。

1)完全に情報が揃うことはない
例えば球数制限をする、となっただけでも、
「本当に100球が良いのか?80球や90球、110球ではだめなのか?」
「1試合で180球を投げても壊れない人もいる。本当に球数の制限が故障を防ぐ方法なのか?」
「部員が9名しかいないチームはどうしたらいいのか?」
など、ほとんど本質とは関係のない派生が生まれ、その選択肢ごとにデータやエビデンスを集めても、そもそもそれを示すデータがなかったり、存在しなかったりする。いつの間にか情報のための情報という深い森でさまようことになる。

2)情報を集めている間に情勢が変化していく
高校野球で言えば、ファンが離れていったり、実際に選手が無理をして肩を壊し、世論が違う方向に傾いたりする。さらには、1で集めたデータの所与の根幹が変わったりする。

3)常に「事例」があることしか取り組めなくなる
(永遠のフォロワー体質)
「検討」するためにはデータが必要だという論理に基づくと、データがないことは決められなくなる。さらには、データがあるということは既に誰かが試していることだ。 あるいは、本当に役に立つデータは実践や挑戦の中でしか手に入らない。挑戦せずして手に入る「貴重なデータ」などないのである。

つまり情報を欲している限り、常に前例が必要となり、永遠のフォロワー体質から抜け出せない。これを積み重ねると「後進国」になっていくのだ。

上記が積み重なった結果、「決断力」はいつまで経っても磨かれない。
それほど、「多角的に検討」というのは先延ばしするための便利なフレーズなのである。

そして極めつけは、

・全ての情報を集めて理知的に考えて出した結論が、正解とは限らない

これに尽きる。たくさんの情報を集めて、長い時間をかけ、たくさんの人数で決めた結論ですら、間違うことがある。

思い切った言い方をするのだが、時間をかけて「多角的に検討」すれば答えが出るというのは幻想ではないだろうか? 良いと思う答えがあれば、それを仮説として実際のアクションを起こし、現場の成功や失敗から仮説に磨きをかけていって成功に近づく方法もある。

この点で、「許可を待つな、謝罪しろ」という3Mの社是はとても良い点を突いていると思う。同社資料のP22に面白いフレーズがある。

http://multimedia.3m.com/mws/mediawebserver?mwsId=66666UuZjcFSLXTtlxMt4xT6EVuQEcuZgVs6EVs6E666666--&fn=3M_COI_Book.pdf

"It is easier to ask forgiveness than permission. With a sincere attitude toward one’s work, the chances of doing real damage or harm are small. Consequences from bad calls, in the long run, do not outweigh the time waiting to get everyone’s blessing."

「許可を待つな、早く動いて謝罪する方がましだ」というなんともシンプルなコンセプトだ。

網羅主義に陥ることで、決断や行動のスピードが落ちていないか、自己点検する習慣を持ちたいものだ。 それくらい、気づきにくい罠だから。


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