現象学、サイバネティクス、社会システム理論、そして環境という膜のない世界


ここ最近の哲学の興味は現象学、サイバネティクスだった。とりわけ、最近読んでいた本はウィーナーの『サイバネティクス』、ベイトソンの『精神と自然』と『精神の生態学へ』、そしてルーマンの入門書である『ニクラス・ルーマン入門』を読んでいた。これら現象学やサイバネティクスに関係している本というのは何かと役に立つような本ではない。社会学的なルーマンの「社会システム理論」も、理解できたからといって何かの役に立つような感じはしない。この数ヶ月、これらの著作をなんとなーく読んでいた。何かに使えるわけではないが、何か社会を説明する時に重要になりそうだなと感覚的にはあった。

2次観察

特にこの中で大きな影響を与えたのは「社会システム理論」の中で語られるオートポイエーシスについてだ。これはざっくり説明すると、完全に独立した個というものは存在せず、外部の物質や情報が常に出入りしている、というものだ。よって人間そのものや社会そのものが曖昧な膜のようなもので区切られている、もしくは区切られていない、というものだ。

知り合いとの話の中から最近話題のLLMについてが出た。いわく

人間のように振る舞うAIが出ることによって、人間以外に人間らしさを持つものが現れた。よって人間という枠組みが崩壊しかけている。

という趣旨の話だった。ここから先ほどの膜の話につながってくる。近代まで研究においても人間 対 他 の構図は強く、二元論的だとか人間中心的だったと思う。デリダの脱構築主義でこの二元論的な脱出があったのかもしれないが、個人的には現象学の誕生からこの二元論的な脱出があったと思う。

私の思う現象学の解釈は、2次観察、もしくはそれ以上の次元の観察である。まず1次観察について述べると、これは科学的研究にかなり近い。ニュートンが「りんごが落ちる」のをみて原理を思いつくのが1次観察であり、「ニュートンがリンゴが落ちるのをみて思いつく」ことを観察するのが2次観察である。この場合の2次観察から導き出されるのは「ニュートンは他の人と違ってりんごが落ちることにさえ物理学のことを考えていた」とかそんなところか(胡散臭いビジネス書みたいだが)。
この2次観察によって得られる考察は「世界がどのように構築されているか」という1次観察を観察することによって「社会が世界をどのように解釈しているか」という洞察が得られる。これにより個人の思い込みや考えということではなく、人々の振る舞いを解釈することができるようになると思う。

お知り合いと話をしているうちにこの二元論的脱出と膜の更なる希薄化、それによって起こるのは均一化、融和することだという話になった。

AIの誕生によって人間というアイデンティティが崩壊し、自分と他の人との区別がつかなくなる、それは個性の崩壊ではなく、壁の崩壊であり、個性というのはせいぜい濃度勾配のようなものだろう。

この時、完全な個人主義、人間中心主義を唱えていた人たちは混乱に陥る。
「AIが発展した今、私は何ができるだろうか」
「AIを手懐けることができなくなる」

そこで最近話題なのは「脱人間中心」である。これは「アンチ人間中心」でないことに注意したい。これはまさに「人間中心か否か」という二項対立を脱している。この脱人間中心というものは、人間や自然、機械などを内包したすべての事柄を考慮することである。今まで「人間がどうするか」という前提条件のもと考えられていた。例えば環境保護でさせ「これから温暖化によって人が住めない土地に変わる」という文脈が拭えない。ここではそれを超越した考えである。

脱人間中心とサイバネティックスと環境

脱人間中心というとまだ人間というものに囚われている感じが否めないので、人間中心的構造を脱して考えるレイヤーをまとめて環境と呼ぶことにする。

この人間中心から環境を考えるに至るまでは、サイバネティクスが大きな役割を果たしたと思う。昔から人間と自然は同じものと言われていたが、無機物、とりわけ機械とは大きく区切られてきた。道具的な役割として機械というものは扱われてきたが、『サイバネティクス』によって人間の振る舞いと機械の振る舞いに共通項があるということが言われた(大雑把な説明であることを明記しておく)。ここからさらにベイトソンの『精神と自然』より自然と人間の精神の共通項が見出され、より人間オリジナルとおもわれたものが希薄化してきた。こうして研究の議題は人間中心から環境について考えることとなった。

特に機械は意志を持っていないからこの考えには至りにくいのだが、視点を変えてみるとわかりやすい。

例えば犬について考えてみよう。犬と人間は昔から狩りなどで協力し、今日でもパートナーとしてお互いの関係を保っており、数千年もお互い種の数を増やすことができたわけだ。お互い利用し合うことで、生物の目的とされている種の保存に成功している。

つまりこの犬のように、機械も、意識の有無など関係なく動いているのではないか。人間と協力関係にあることによって、機械も人間も発展していく。つまりAIによって機械に意志が生まれるかという議論を横においていても、「そのように振る舞っていると仮定した方が説明に都合が良い」ことが多い。ここに関してはルーマンの「社会システム理論」における、コミュニケーションがコミュニケーションをするという点に一致すると思う。このコミュニケーションというものは、既に人間すら有意志か否かは重要ではない。

つまり、環境とは

それでどうした、と言われると最初に説明したとおり何かに役立つような文章ではない。ただし、この環境というものについて深く洞察できる。これを前提とすると、我というものがどんどん希薄化されていき、無意味なものになっていくわけである。主語がなくなっていく。

ここを健康に当てはめると面白い。健康というものは狭義的では、まさに我の塊である。病気なんてものは基本的には自分本体にしか降りかかるものでしかなく、痛みというものも同一の痛覚を共有しているわけでもない。もっと言えばあなたが健康であろうとなかろうと街行く人たちにとってはどうでも良いわけである。

もっとも、この3年間は事情が違かった。街行く人たちの健康状態にはとても敏感になったと思う。マスクもなしに咳やくしゃみをしたものであれば非難の目を向けられる。これも一種の環境であったろう。
病というものが相互に交換(コミュニケーション)をすると捉えることができる。こういった観点からいくと健康というものも身体を薄膜としたオートポイエーシス的(まさに生物学的な)存在なのだろうと思う。心身二元論であったりだとかの前提を包括的に考えることができる。

面白いのが、well-beingという言葉がアツいのが建築業界であることだ。「心身ともに健康である」というものが医療ではなく、なぜ建築にあるのか。
建築というものがまさに環境そのものを作るからだろう。医療業界ではさきほどいった個人という膜の内部にしか作用することができない。しかし建築はそのまったくの逆で、外部からしか作用を及ぼすことしかできない。それどころか言語的なメッセージを直接も伝えないのである。建築家が作ったものは、建築物を介して利用者とコミュニケーションを行い、そのコミュニケーションの結果としてwell-beingというものを実現しようとしている。これこそまさに環境であり、包括的な健康として語られるwell-beingが、自身の内部から現れるだけでなく、外部との相互作用によっても起こることがわかる。

つまりここでいう環境というものは、もっともらしい説明原理でしかない。現代のAIや科学研究というものを議論し、将来どうしていくかなんてものを議論するときに直接的なものを見ていては相互作用は見えてこない。広い視点で考えるならば二次観察的な視点を持つべきである。その最終系が環境というものである。この環境という言葉が、問題が個人的なものか全体的なものかの区別をつけることなく包括的に議論を進めてくれるのである。

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