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Kyoto Creative Assemblage: Nov.

受講中の「Kyoto Creative Assemblage(京都クリエイティブ・アッサンブラージュ)」について、11月度(4週分)の講義内容に関する感想などを綴りました。

11月度講義の流れ

  • オンデマンド:星座、「時代を表現する」方法論

  • 10/28 オンライン:課題共有、ディスカッション

  • オンデマンド:アッサンブラージュ、シーンを描く、世界観に導く言葉

  • 11/4 オンライン:課題共有、ディスカッション

  • オンデマンド:価値転換 

  • 11/12 対面:課題共有、アート演習

  • 11/26 対面(Part1 最終日):課題共有

オンデマンド:星座

用語編にまとめているベンヤミンの「星座」、「救済」、「跳躍」などの言葉を見て、なにか感じたでしょうか?以下は極めて主観的な感覚の共有ですが、KCAに参加してから、心を掴まれるような言葉に多く出会ったように感じています。この“感じ”の言語化が難しいのですが、一見わからないけどグッとくる/ドキッとする、そんな感覚でしょうか(この感覚を得られることが“良い/正しい”というわけではありません)。ここでふと頭に浮かんだのが、Dialogueでも取り上げられている「ラグジュアリー Luxury」でした。中野香織さんは、ラグジュアリーを以下のように定義されています。

時代に依らないラグジュアリーの普遍的性質を、色欲 lust・繁茂 luxus・光 luxと整理した。つまり、「ラグジュアリーとは、誘惑的であり、豊かさを表すものであり、光り輝く(輝かせる)もの」である。

ラグジュアリーの反対語は、ココ・シャネルいわく「下品 vulgar」。新しいラグジュアリービジネスがKCAで取り上げられるのは、時代/資本主義への批判を伴う世界観づくりの事例としてのわかりやすさのため、と認識していましたが、“いかに語るか”という観点でもラグジュアリーから学べることは多くあるように感じました。

11/11 Dialogue:「佐藤可士和の創造性を読み解く」

対面講義の前日に実施された公開イベントは、ちょうどその週のオンデマンド講義のテーマであった価値転換 transvaluationを絡めた話題が多く、受講生にとっても新鮮な内容でした。下記は佐藤可士和さんが手がけた事例の一部です。

ユニクロ:丁寧につくられたクラフトではなく、大量生産である強さを出したいと思った。同じものが何億個もできるのはデジタルミュージックのようで、ラディカルでかっこよく映るのではないかと考えた。(大量生産だからよい)
極生:発泡酒はニセビールではなく、その軽い味わいをハワイで飲むバドワイザーのようなライトビールだと感じた。スーツを着て飲むビールではなく、デニムにTシャツ姿で飲むようなビールとして提案した。(発泡酒だからよい)
今治タオル:毒入り餃子をきっかけに食品の安全性やトレーサビリティに注目も集まっていた当時に、その考えをタオルに取り入れた。白いタオルといえば工務店の名前が入った粗品というイメージだったが、おいしい水や米はそのまま味わうように、肌にふれても安心・安全を訴求するタオルは白色しかないと考えた。(白色だからよい)

また、佐藤可士和さんは下記のようにもおっしゃっていました。

「否定しないことを大切にし」、「こっちもありだよね、という文脈をつくっていく」、そのために「もっともよく見える視点を決めて、デザイン・言葉・お店などを通じて社会の視点をそこに誘導する。それで“いいじゃないですか!”と言ってもらえるなら、それはウソではないし、もっとも正確に伝えているということかもしれない」

まさに、ニーチェがいう軽く・遊ぶような肯定による価値転換を佐藤可士和さんは体現されているように感じました。私たちは、どのような肯定によって、「〜だからよい」をつくれるでしょうか?

11/12 対面:アート演習

4回目のアート演習は、とある機械的な装置を使ったワーク。個人でのワーク終了後、合評のなかで京都市立芸術大学の先生方から下記のような解説・コメントがありました。

「鉛筆など道具というメディアを通した知覚が、アート(作品)になっている。つまり、アートの歴史とは、手と目の拡張、人間の拡張の歴史でもあるといえる。とはいえ、今回のような機械的な方法であっても、捉え方・描き方はそれぞれであるし、今の絵は今しか描けない。そのような個性は誰もが最初から持っているということ。」
「緻密な作業の方が、頭で考えた個性が外れやすい。」
「目に見えた形ではなく“葉っぱ”というような記号を追う積み上げだと、想像通りのものが書けるかどうかが軸になってしまう。見たことのない形を追いかける、観念を忘れて光を追いかけていく、それによって見たことないものが絵として見えてくる。」

これらのコメントを聞いて、「事業において、生活者のデータから何を見いだすかと同じことなのではないか」と直感しました。生活者の日々のくらしという地続きでアナログな事象を、事業者はどう頑張ってもデジタルなデータ(生活の一部/一側面を切り取ったもの)でしか捉えることができません。そのデータをいくらか集めれば、十分に“記号”は見えてくるかもしれませんが、その積み上げは“想像”でしかない。それを超えるためには、“観念を忘れて光を追いかけて”いけるように、道具による手と目の拡張が必要なのではないか、と。その道具を携えて生活者に緻密に向き合っていけば、あとで振り返った時に、自ずと私たちの個性が現れていたと認識できるのかもしれません。“らしさ”については9月度記事でも書いているので、お時間あればぜひそちらもお読みいただければと思います。

Part1 「社会をよく見て、時代を表現する」を終えて

当初noteでは受講の感想だけを記事化しようと考えていましたが、全体像を掴めはじめた今月に入って、用語編時代背景編方法論の3つの記事に分け講義内容をまとめました。その動機は“受講生だけじゃなく、多くの人に届いたらいいのに”と率直に感じたからです。そのように駆り立てられるほど、知的好奇心をくすぐられる面白さのある理論(の組み合わせ)と、さまざまな場面での活用可能性を感じる方法論でした。方法論に沿った個人課題だけでなく、人文社会学の理論を並行して見ていくプロセスは、受講生側に積極的な学習/参画態度が求められるので、(実験的な一期生ということを差し置いても)たいへんであったことも事実です。それでも、この3ヶ月は”楽しかった“の一言に尽きます。個人課題が終わった解放感もありますが、ここで立ち止まらず、「新しい世界観をつくる」ことの挑戦へと繋げていきたいと思います。

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