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Kyoto Creative Assemblage: Sep.

9月3日からはじまった「Kyoto Creative Assemblage(京都クリエイティブ・アッサンブラージュ)」について、受講中の今だからこその心境でnoteに残していこうと思います。一ヶ月分の内容をひとつの記事にすることを目安に考えていますが、講義内容や情報を網羅的に伝えるのではなく、印象的だった言葉や自身の考えを中心に書いていく予定です。

また、読んでくださっている方は公式ウェブサイトの内容を(Archives含め)ご存知、という前提で綴っていきます。公式のなかで表現されている内容をまずはそのまま受け止めていただきたく、未読の方はぜひ公式ウェブサイトを先にご覧ください。

講義形式の補足

基本的には、月1-2回の土曜11:00-17:30の京都での対面もしくは金曜18:30-21:00のオンラインのどちらかの形式で、リアルタイムセッションが毎週設定されています。セッション間の期間には、オンデマンドでの講義配信と次回までに提出する課題があります。対面の11:00開始設定や、オンラインを活用した反転形式など、業務外参加/関西圏以外の社会人も受講しやすい設計だと感じました。(受講生26名のうち、関西圏以外からの参加が半数近くを占めていることには驚きました。)

9月度講義の流れ

  • 9/3 対面:キックオフ、パネルディスカッション、アート演習

  • オンデマンド:歴史をつくるイノベーション、自己表現と世界観、創造性

  • 9/9 オンライン:課題共有、ディスカッション

  • オンデマンド:事例

  • 9/16 オンライン:課題共有、ディスカッション

  • オンデマンド:文化、文化的エリート

  • (次回10/1 対面)

9/3 対面:パネルディスカッション

山内裕先生がモデレーターとなり、佐藤可士和さん・長谷川愛さん・川嶋渉先生が登壇され、「創造性とは?」をテーマに行われました。そのなかで特に印象的だったのは“独自性・らしさ・作風とどう向き合っているか?”という文脈のなかでのコメントです。

川嶋渉先生「独自性は垢のようなもので、それに甘んじると動けなくなってしまう。捨てたいが出てきてしまうものとの戦い。」
佐藤可士和さん「昔は独自性がなければいけないと思っていたが、今は透明になろうと思っている。しかし、エゴじゃなくてもそれは十分に出てしまうもの。何よりも自分に素直になれているかどうかが大事ではないか。」
長谷川愛さん「人には自由意志がないと考えている。それは環境と肉体の偶然性でしかない。それをどう自分で客観的に見られるかどうか。」

個人のことだけでなく組織のなかでも「らしさ」という語りが出てくる場面がたびたびありますが、関係性のなかで自ずと/結果的に出てしまうものが「らしさ」なのかもしれません。また、それを事後的に自覚すること/し続けることが大切なのだろうと感じました。

9/3 対面:アート演習

(アート演習の内容を書くことは控えますが、公式Twitterの投稿画像から妄想していただければと思います。)
アート演習のなかで、京都市立芸術大学の先生方は「答えを教えるような演習ではない」とおっしゃいました。私なりに言い換えると、“〈これ〉は〈何〉なのか?”を受講生それぞれが見いださなくてはなりません。〈何〉という意味だけでなく、〈これ〉という対象すら、その場その時を受け止める受講生次第です。
演習同日のキックオフのなかでは、アート演習の狙いについて下記のように説明されていました。

アーティストが持つ、言葉で説明しにくいが、個人的に体得しているスキルとは何なのか。京都芸大の総合基礎実技を経て芸術を学んでいる学生たちが、共有している価値観や感性、あるいはそれぞれが研鑽し続けている「勘」(=身体知)とは何なのか。言葉では説明できない「勘」を、アート演習を通じて獲得していただくカリキュラム

キックオフ資料より

“「勘」に答えはなく言葉では教えられない”の主張には納得してしまうのではないでしょうか。だからこそ、「勘」は自分という身体のなかで育むしかなく、月に一度は対面でのアート演習があるのだと理解しました。

9/9 オンライン:ディスカッション

印象的だった場面は、受講生からの質問を受けての、山内裕先生・佐藤那央先生の「本質」についての説明です。

山内裕先生「(現在の学問において)『本質』は避けるべきものと捉えてられている。物事の背景には(不変の・絶対的な)本質があるという本質主義(essentialism)の考えは、実はそうではないと暴かれてきた。つまり、本質だと思っているものはつくられたものである。」
佐藤那央先生「『本質』という言葉はどうしても強力に聞こえる。佐藤可士和さんが先週話していた『本質』とは、一つの物事を突き詰めていき取り出したもの、の意味合いだろう。それがこの先の時代も変わらないかと問われたら、そうではないはず。」
山内裕先生「そこで全ては相対的なのだ、で終わらずに、歴史化する(historicize)視点が大事。本質に見えること、当たり前だと思うようなことがどのようにつくられたかを解体していく。つまり、歴史化とは軽くしていく作業。」

この説明から感じたことは、“その言葉が意味するものはなにか?”に繊細になりながら、対話の上で認識を合わせようとすることの大切さでした。「本質」など日常的に使っている言葉が、何を指しているのか、何を指していないのか。一意な定義を安直に求めず、複雑さやニュアンスを残せるような輪郭を言葉の組み合わせのなかで探ろうとする態度も、人文社会学がもたらす価値なのかもしれません。

9/16 オンライン:ディスカッション

今・現在の渦中にいる私たちは過去の事例のように分析することは可能なのか?この質問に対して、山内裕先生は下記のように回答されました。

山内裕先生「事例は私が過去のものを解釈し、その時代がどうだったかを読み解いている。今・現在にいる状況で新しいものを生み出すときに、事例のように歴史的な説明はできないだろう。しかし、『イデオロギーの星座』をつくることで、兆しを掴むことはできる。」

「イデオロギーの星座」の詳細は今後の講義で出てきた際にふれると思いますが、私がなるほどと感じたことは、“歴史的事実としての時代ではなく“時代という捉え方”です。「時代」の言葉からは、少なくとも十年ほどの時間のかたまりを想起するのではないでしょうか。一つひとつの具体事象を束ねた総体としての「時代」を議論の中心に据えることで、時間的強度のある価値観・思想・当たり前を論点にする。過去への時間軸を伸ばすほど、変遷や時々の必然性が見える。それらを踏まえて今・現在に生み出す新しいものには、未来方向への時間的強度があるのかもしれない。以降の学びに、そんな期待を持ちました。

「Kyoto Creative Assemblage」というメタ的な実践

旧来的な枠組みによる問題解決やニーズの充足を目指しているだけでは、価値を創造することができなくなってきています。それらの価値創造は、人々を一時的に満足させることはできても、揺さぶり突き動かすことはできません。
時代を先導し、大きな価値を産み出すためには、緊張感や違和感を伴いながらも、新しい社会へ人々が一歩足を踏み出せるような「世界観」をつくり上げねばなりません。

公式ウェブサイト「About」より

プログラムの導入にあたるこの一ヶ月の講義やディスカッションを経て、「Kyoto Creative Assemblage」というプログラムそのものが新しい世界観のひとつではないかと思いました。その世界観に「自分を新しく表現できる手掛かり」を得ようとしているのが受講生であり、私はその一人です。つまり、“「Kyoto Creative Assemblage」という実践を通して同様の実践を生み出そうとするメタ的な実践”がこのプログラムの構図なのかもしれません。このメタ的な実践のなかから、私自身も「新しい世界観をつくる」ことに挑戦していきます。

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