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『哀れなるものたち』と倫理的行為

ヨルゴス・ランティモス監督が手がけ、エマ・ストーンが主演した『哀れなるものたち』。第96回アカデミー賞11部門ノミネートを果たしたことで注目を集めるこの作品のラストシーンについて、ラカン派精神分析の視角から縦横無尽にポップカルチャーを/も論じるスラヴォイ・ジジェクのように考察することを試みたい。以下は『哀れなるものたち』鑑賞後に読まれることを想定し、作品自体の説明は深くせず、(ラストシーンを扱う以上、当然ながら)ネタバレ含め記載する。

ラストシーンの選択肢

注目の作品だけあって、数多くのネタバレ解説・評論コンテンツがウェブ上で見られるが、その多くで話題に挙げられているのがラストシーンである。そのなかには「ベラの元夫の身体に山羊の脳を移植したラストシーンに対して、その逆、つまり山羊の身体に元夫の脳を移植する選択肢もあったのではないか(その方が風刺のきいたラストシーンではないか)」という意見がしばしばあった。しかし、『哀れなるものたち』のラストシーンには必然性があることを、ラカン派精神分析の視角からカント倫理哲学に切り込んだ、アレンカ・ジュパンチッチ『リアルの倫理』(冨樫剛訳・河出書房新社)を引用しながら考察する。
結論は次の通りである。ベラの「倫理的行為」であるからこそ、あのラストシーンは必然である(逆はありえない)。

前置きを少し:「倫理」、「義務」

結論に至るために、まずはじめに、カントが用いるところの「倫理」・「道徳」について理解する必要がある。

カントは言う――「その駆動力の如何にかかわらず、ある行為が法に適っているかいないかというのは合法性の問題である。これに対し、法に起因する義務の観念が行為の誘因である場合、これは道徳性と呼ばれる」。
つまり行為の倫理的側面は、合法/違法という対立に対して剰余であると言っていいだろう。

アレンカ・ジュパンチッチ『リアルの倫理』pp.26-27

上の内容は、次のように言い換えることができる。

「義務を果たすこと」(合法性)
「義務を果たすこと、しかも、ただ、それが義務であるから、という理由のみのために」(倫理性)

アレンカ・ジュパンチッチ『リアルの倫理』p.31

「『それが義務であるから』という理由のみのために行動すること」(p.32)、法を超えた剰余に「倫理」が見いだせる、という。

では、「倫理」の説明に出てくる、「義務」とは何なのか。これもまた、カント(あるいはラカン)に則って理解しなくてはならない。以下では、「義務」=「道徳律」について述べられた箇所である。

倫理哲学に対してフロイトが与えた衝撃は、次の命題に集約される――哲学が道徳律と呼ぶもの、より厳密に言えば、カントが「至上命令」と呼ぶものは、実際には超自我に他ならない。

アレンカ・ジュパンチッチ『リアルの倫理』p.15

超自我とは、(大胆に言い換えてしまうと)無意識的な自我のことである。そして、「主体は、自らの無意識に従属している〔サブジェクト〕――あるいは、隷属している――と同時に、最終的には、その無意識の主体〔サブジェクト〕――その無意識を選択した者――でもあるのだ」(p.51)と説明される通り、主体と無意識(ひいては道徳律=義務)は両儀的な関係がある。つまり、「義務」とは主体の外部から一方的に与えられるものを指してはいない。むしろ、主体の選択なくして義務は義務になりえない。この論理は以下の文章からも確認することができる。

道徳律における最大の問題は、これが「適用」されるべき状況の多様性ではなく、まさにこの普遍的実体たる〈法〉の確立に際して、主体がどのような位置を占めているか、どのような役割を果たしているか、ということである。(中略)自ら義務だと見なしたもののみが主体にとっての普遍的義務となるからである。

アレンカ・ジュパンチッチ『リアルの倫理』p.79

以上の意味合いで「義務」という用語を捉えたうえで、「『それが義務であるから』という理由のみのために行動すること」を理解する必要がある。

前置きをもう少し:「行為」

「倫理」については上述の通りだが、「行為 act」という用語にも十分な留意が必要である。その理解のためには、カントの言葉よりも、ジジェクの解説がわかりやすい。

スラヴォイ・ジジェクによる解説を借りて、ラカンの考える倫理的行為についてまとめておこう。行為〔アクト〕は、行為者を根源的に変化させるという点で、「行動」とは異なる。行為の後、私は「以前の私ではない」。行為の中で主体は消滅し、そして再び生まれる。つまり、主体は一時的に、皆既蝕における太陽や月のように、消えるのである。それゆえ行為とは、常に「犯罪」、主体が属する象徴界からの「逸脱」である。以上の点から、ラカンは「最も典型的な行為は自殺である」と主張するが、この言葉には注意が必要だ。というのは、そこには単なる主体の(自発的な)死以上の問題が含まれているからである。

アレンカ・ジュパンチッチ『リアルの倫理』pp.101-102

行為の結果(行為者の根源的な変化)は文字通り理解できるが、行為それ自体の例として挙げられた自殺とは、(ジュパンチッチが注意を促しているように、)犠牲の論理にそった命を差し出すような自殺ではない。

自殺の趣旨を説明するためにジュパンチッチは、カントが『人倫の形而上学』のなかで論じたフランス革命におけるルイ十六世の処刑について取り上げている(pp.103-104)。
王は、二つの身体、生きる人間としての身体(経験的身体)と、〈王〉としての身体(象徴的身体)をもつ。国民は、経験的身体を傷つけるような単なる「王殺し」ではなく、法に則って行われる国王の処刑によって象徴的身体を破壊する。象徴的機能としての国王、ひいては与えられる象徴界全体が破壊されることで、国民は〈国民〉というアイデンティティを失うことになる。
つまりこれは、「自己同一性、地位、そして意味など、〈他者〉、つまり象徴界における我々の存在の支えを破壊する」という意味での「自殺」となる。

なお、カントはこのような自殺行為を「悪魔的な悪」と呼ぶ。しかし、「自らの議論にしたがうならば、彼は、倫理的行為の説明に用いたものと全く同じ言葉によって、これを記述せざるをえないのである」(p.104)。そして、ジュパンチッチは以下のように主張する。

悪魔的な悪、最高悪と最高善は区別することができない――これらはともに、達成された(倫理的)行為の定義に他ならない。言い換えよう。倫理的行為の構造の内に善悪の区別は存在しない。形式的には、善も悪も全く同じなのである。

アレンカ・ジュパンチッチ『リアルの倫理』p.112

ベラの「倫理的行為」

前置きがずいぶんと長くなってしまったので、『哀れなるものたち』のラストシーンを「倫理的行為」として一気に考察する。
ベラにとって元夫とは〈象徴界〉(言語や意味の場)の存在であり、元夫がいるからこそ、生前の自分の存在が〈象徴界〉のなかで支えられている。ベラは、「進歩させる」という義務=道徳律のためだけに、瀕死の元夫を死なせることなく、元夫の身体に山羊の脳を移植する。元夫は、見た目は変わらないものの人間としての言葉を失ってしまう、つまり〈象徴界〉の存在ではなくなる。この行為によって、ベラは生前の存在(「以前の私」)としては消滅し、〈ベラ・バクスター〉として再び生まれることになる。(この倫理的行為は、鑑賞者にとっては「悪魔的な悪」にも映る。)
この行為の選択肢が逆、つまり山羊の身体に元夫の脳を移植していた場合は、それは単なる「元夫殺し」となり、「行為」として失敗に終わるのである。それゆえ、「ベラの『倫理的行為』であるからこそ、あのラストシーンは必然である(逆はありえない)。」

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