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特定コミュニティにガッツリ入り込むことの恐怖感

 子供の頃から、友人の数は多い方だったんだけど、

特定のグループに入って、朝から晩までずっと同じ人間関係の中で過ごす

ということの居心地の悪さをずっと感じてきた。

典型的なものは「トイレ友達」という付き合い方で、自分の生理現象のタイミングと友人のそれが同じだとはどうしても思えず、連れ立ってトイレに行く女子のグループを見ると不思議すぎたし、一緒に長い間、鏡の前であれこれと話しながら髪を整えている光景を見るにつけ、さっさと終わらせて別の場所でゆっくり話せばいいのになといつも思っていた。洗面台の前にずっと立たれると他の人の迷惑になるのに。

とはいえ、私の周囲にいる友人達は私と類友で、仲の良い友達グループというのは確かにあったのだが、その友人が他のグループの子達と話しをしようが、時々お弁当を別のグループで食べようが、そういうこともあろうと思っていた。それでも何となく私はある特定グループに所属していたことは確かで、そこから大きく誰かに外されるような経験もなく穏便に過ごしていたので、世の中とはそういうもんだろうとずっと思っていた。居心地が良いわけではないが、波風立てるほどでもないという状況が、ずっとずっと続いていた。

その感覚が、突然スコンと抜けた瞬間があった。

高校三年生の時だ。

クラス替えがあり、文系と理系のクラスが分かれたりはしたけれど、個々人の選んだ科目は他の誰とも同じではない。受験のタイプによって個人で選択できる科目の幅が大きく、私と全く同じ授業パターンを受けている生徒はほとんどおらず、いくつかの科目で被っているだけという感じであった。まさに大学の授業と同じような感じになったのだ。

休み時間というものは、急いでトイレに行くと同時に次の授業のあるクラスに移動しなければならない。同じ学年の全員が、そうやってクラスをバタバタと移動するようになり、廊下ですれ違う仲の良かった友人とは、まさに道端でバッタリと会ったかのように大きく手を振り合い、お互いの次の授業について簡単に叫ぶ。

「今から数IIBのクラス!○○ちゃんは?」
「私、これから生物!実験室やねん!」

みたいな会話を叫びながら、慌ただしく移動するのだ。

その日の最終授業が終わると、その物理的な教室担当の先生が全員に配るプリントを全員に配布してすぐに解散になる。確か1週間に何回かは、最後の授業がクラス全員に必須のもので、そこに担任が来てホームルームを行うこともあった。クラス全員が揃うのはそんな時くらいであった。

私はこの自由に人が行き交い、休み時間の過ごし方で悶々としないこの1年間が、とっても居心地が良かったのだ。

学校側は放課後の教室を開放していて、塾に行かない生徒達は、そのまま学校に残って自習していた。私は全く勉強などしないタイプだったけれど、そのスカスカの教室で静かに学習する真面目なクラスメート達の中に身を置くことに居心地の良さを感じて、よく制限時間ギリギリまで教室に残って宿題などをやっていた。

そんなことを思い出したのは、このVoicyを聴いたからだ。

分かる……….。

カナメが、帰国後は(一時的にでも)実家のある地方小都市に住むつもりだと聞かせられた時に私が真っ先に抵抗したのは、田舎の生活自体が嫌だとか、都会のキラキラが好きだとかそういうことではなく、「田舎の濃厚な人間関係」に近づきたくなかっただけなのである。

義母から色々な愚痴を聞いていた私は、もし将来的に実家に住むことになったら、その義母が担っていた役割が、いつか私に降り掛かってくることが容易に想定できた。その義母の愚痴の内容は、私から見ても愚痴をこぼす方がマトモだろうと感じるほど、ある意味、理不尽で非合理的なやり方を強制させられる環境であった。

私ならもっと合理的にやるけどな…….

と思うのだが、当時の義母曰く、そのコミュニティでは義母が最年少で、重鎮のお姉さま、お兄さま方に新しいやり方を提案して、それに従わせるというのは無理ゲーだろうなとは思った。ただただ穏便に与えられた役割をこなし、役割の任期が終わるのを待ち焦がれる生活だった。そしてその役割というのは、8年間程、やらないといけないとも言っていた。

これを恐怖に感じない若者がいたら、尊敬するわ。メンタルやられそうよ。

ところが、一昨年に地元に帰ってきたら、周囲に住んでいた人たちが世代交代をしたのかというとそうではなく、「そして誰もいなくなった」状態であった。昔にあったはずのコミュニティがほぼ壊滅状態で、インターネットもあり、ネット通販もできて、お葬式などの冠婚葬祭も別にコミュニティ内でやるわけではなく、完全に業者さんに一括丸投げできるような時代になっていた。そして私たち自身、まぁ割と自分で何でも解決できるので、困ることが一切ないのである。

とは言え、行きつけのお店や家庭医の先生、その他、家の工事に来てくださる業者さん等々、知り合いはそれなりに出来てきた。個々の人たちと親しく話すこともできるけれど、彼らのコミュニティの一員になっているわけではない。そしてその一員になりたいわけではない。

でね。

そこで気づいたのは、コミュニティの中にどっぷり入るのではなく、線として繋がるためには、更なるコミュ力が必要なのかもしれないということだった。

自分のことは、基本的に自分でできるという前提があっても、である。

目の前の人に、例えばその場その瞬間に、相手にとって有益な情報を提供できるとか、何かあった時にはお手伝いするとか、基本的に(相手から何かをTAKEするつもりはなくても)GIVEする気満々の雰囲気をうまく伝えておくためには、かなりコミュニケーション能力を必要とされるだろなと思ったのだ。

誰にも言われなくても自分の家の周囲はきれいにしておくとか、ごみの回収ポイントでカラスが中身をぶちまけていたら黙って掃除しておくとか、まぁ人間として正しかろうと思うことは迷いなくやっておくことも大事なことなのよね。あいさつは絶対に欠かさずに、道を譲ってもらった人やバスやタクシーの運転手さんにもお礼を伝え、そこそこ匿名性が高い状況でも「自分は害悪を撒き散らす存在ではない」という雰囲気を全身から発しておくことが、意外と自分を守ることにもなったりするのかも。

つまり、コミュニティにガッツリ入り込んでも、入り込まなくても、ある一定レベルのコミュ力は必要とされ続けるのだなということだ。

身も蓋もないけれど(汗)。

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