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【ガーデニング】だから人はタネを蒔いてしまうのだな

 昨年、私は大きな悟りをひらいたのだった。

もうハーブの種など買わない。買うなら苗から買うもん!!

全然悟った雰囲気出ていないが、そういうことだ。

そして今年、私は新たな境地に達してしまった。

数粒の種から大きく育ち、出し惜しみすることなく大量に花をつけ続けるラベンダーを見て、そのコスパたるやすごい、と。

いや、違う。そっちじゃない(汗)。

苗で買ったらその何倍ものコストがかかる........ということは脳裏の片隅にはあるけれど、「多くのタネから数株が育ち、その中からまたまた脱落しつつも、残った希少な株たちが、それぞれ多くの葉をつけて、大量に咲き乱れる状況そのもの」に、ちょっとホロっと心動かされてしまったのだ。

時間はかかるけれど、その手間暇をかける価値があった、いやいやそれ以上のものがもたらされた感動を、感じてしまうのだ。

だから人は、手間がかかっても、タネを植えてしまうのだ。時間がかかったとしても、それはいつか可憐な花をつけるのだと信じられるからだ。

プロの手により完璧に強い株として育った苗を購入し、水やりを欠かさず、適切な時期と頻度で肥料を与えれば、それはかなりの高確率でフツーに育つ。

植物の世界の淘汰の第一波は、タネから10センチ程度の高さの苗に育つまでに来る。体感では、そこを生き抜いたものは全体の一割にも満たないと思う。

その厳しい生存競争の中で生き残った強く逞しい遺伝子と、環境に恵まれる運の重ね技で、ようやく花をつけ、タネを落とすことに成功する一握りの株となる。

そこで思ったわけよ。

生かされた株は、本人の意思とは違う次元で、何らかの使命を背負わされているのだなと。自分だけ生き残ってラッキー、で終わっていいのかと。

思いを遂げる以前に生まれることすら叶わなかった、成長することが叶わなかった同志が背後にいたわけで。

だからこそ生かされた側は、他の人や社会を恨んでるヒマなどないのだ。自分の人生をエンジョイする権利を行使せねば。

淘汰される側から背負わされた使命があるとすれば、彼らが遂げられなかった「与えられた命を存分に自分で生かす人生」であって、同志のために窮屈な人生を歩むことではないのだ。エンジョイしてくれよと。

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ラベンダーの花は、カットしてそのままドライフラワーにして、最終的にはポプリ素材へと化ける予定。ラベンダーって素材として秀逸すぎる。花はもちろん、葉も茎もすべてから、強い香りが漂う。作業をする手にもその香りが移り、私をうっとりとさせる。

ラベンダーをタネから育てるのは、本当に大変だったよ。もう買わないw


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