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コロナ禍で大学生の私が感じる疎外感

私はこのコロナ禍の中で、大学生が忘れられていると感じている。

大学生だけ戻らない日常

新型コロナウィルス感染拡大に伴い、2020年3月に学校の一斉休校や外出自粛が始まった。しかしその後、5月に小中高の対面授業が再開された。仕事も一部テレワークがあるものの、ある程度もとに戻っていると感じる。

一方その中で、大学だけはオンライン授業のままである。私の通う大学では、今年度1年間一部実習や実験など、対面でしかできないものは対面で行われたが、それ以外の多くの授業はオンラインで行われていた。

しかし世の中に、ある程度通常の動きがある中で、大学の授業がオンラインであるということを十分に認識されていない。その中で私はある種の“疎外感”を感じている。

病院での出来事

私が普段行っている病院で2020年12月頃、実際にあった会話である。

私「先生○○について詳しいですか?」
医者「自分は詳しくないけど、新宿に詳しい病院があるよ。そういえば大学は?」
私「××大学ですが…。」
医者「近くだね。じゃあ大学の帰りに行ってみたら?」

最後の一言は何気ない言葉であるが、私にしてみると大学生が未だオンライン授業であることを他者が忘れていると感じるには十分な内容だった。

毎日オンライン授業を受けている私と、目の前に座る人とでは、見えている世界が違うのかという、ちょっとした絶望に近いものがあった。悲しくなった。

少なくとも、この人の世界の中では、オンライン授業を受けている大学生はいないことになっているのだ、そう感じた。

忘れられる側を少し知る

こうやって忘れられて疎外感を口にしている私ではあるが、一方で大学生以外にもコロナ禍のなかで忘れられている人はいるだろう。もっと言うと、この社会の中では、コロナの前からずっと忘れられ、いないことにされている人たちも大勢いる。

現在の日本の結婚制度の中では、同性愛者やポリアモリー(複数の人と恋愛関係を持つ人)等の人たちは、いないことにされ忘れられている。こういう人たちが普段、例えば友人の結婚式に呼ばれるとかの時には、私が病院で感じた疎外感・絶望を感じているのかもしれないと想像する。

現在の私のこれは一時的なものである。大学生が終わったりコロナが終われば多分この疎外感は消えるだろう。

しかし、生まれてからずっと疎外感を感じ続けている人たちは、コロナが終わってもそのままだ。また変えられない属性であれば制度や社会、人の心が変わらない限りその疎外感を感じ続けなければならない。

誰も忘れないために

このコロナ禍の中では、これまでずっと社会にあった歪みが多く顕在化した。そしてそこにいた人たちは、おそらくいないことにされ、疎外感を強いられてきた人たちではないだろうか。

私は、社会問題に関心が強いし、社会福祉を勉強しているから、多少なりともそういう人たちのことを知っているつもりでいた。

でも、今思うと、それもやはり氷山の一角ではないかと感じる。

問題が大きくなっているからこそ、授業や報道で取り上げられる。裏を返すと、皆に思い出してもらうには、それだけ大きな声が必要で、それがなければ気づいてもらうことすら難しいのではないだろうか。

意思決定の場に女性の数が少ないことが問題になっているが、それは社会の中で女性が忘れられ続けてきたからであろう。そして「もう忘れさせないぞ」と、国会などで女性議員の増加を目指している。

そして、今の日本社会で忘れられているのは女性だけではない。LGBTQ、障害者、アイヌの人、沖縄の人、在日外国人も数を上げればきりがない。

できる限り多様な人が意思決定の場にいれば、多少なりとも忘れられる人は減るのだろうか。

私は減ってほしいと思う。そして誰か忘れられている人がいるかもしれないと皆が考えられる世の中になってほしいと私は思う。

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