見出し画像

経営日記 240915

前澤さんがXでポストしていたことで、彼の経営哲学を発信されていました。彼は誰かの経営を参考にしていたというよりも、自分の信念・信条をベースに会社を作っていたということでした。一般的に悪とされる社内恋愛はOK。ボーナスも皆、平等に分配していて、とても皆仲が良かったようですね。その経営スタイルがZOZOで出店したいファッションブランドが増えた要因になっていたということでした。

私が思うに、経営哲学、特にその人が作った作品というのは、その人の価値観が色濃く出てくるわけです。ですから、経営哲学というよりも、その人の人生哲学が強く出てくるんですよね。そういう意味で行くと、自分の人生哲学をしっかり磨き上げることで、経営哲学も良くなっていくということになるんですよね。経営者がどんな人生を歩みたいと思うのか?が、会社経営が決まるのだと改めて認識しましたよね。

最近、仏教を基準とした生き方をしてみたいという話をしましたが、もっと大きな枠組みで、どんな人生を歩みたいのか?ということを考えても良いなと思ったのですよね。どんな人生が理想的な人生なのだろうか?と問い直すことが根本的に大切なのだろうと思ったのですよね。私の家はだいだい仏教的な生き方で、僧侶のような生活をしてきました。楽しみといったら、神社、お寺参りくらいの話で、それ以外は徹底的に節制・節約して、仕事にエネルギーのすべてをささげてきたという生活でしたよね。そういう俗世にいながら出家したような生活だったというわけですよね。当然、そんな生活ですから、お金はどんどん溜まって資産家になったという流れです。ある種、一家の代々の生活を観察していると金持ちになる方法なんて極めてシンプルだなと思いますよね。暇さえあれば働いていれば、浪費する暇がなくなる。という考え方なのですよね。食べ物も皆、粗食ですし、贅沢もしませんし、そりゃ、金持ちになるよね。という当たり前の生活でしたよね。こういう考え方は一つ重要な教えにはなっていますが、私もこういう人生を送りたいのか?ということは問い直さないといけませんよね。

先祖は代々、仏教者として自分の煩悩と戦ってきたということになりますよね。節制し、節約し、慈悲の心で社会に貢献していくというスタイルです。仏教者として生きていくには、苦の根源は煩悩なので、煩悩と戦うというのは、人々の苦をなくすことにつながるということですよね。私も生き方を決めるならば、「何と戦うのか?」ということは考えないといけませんよね。私は男性ということもあってか、何かと戦っていたいという闘志があります。この闘志をどこに向けるのか?ということが大切なんですよね。あとは、幸せですよね。どのような幸福を目指すのか?維持するのか?ということです。社会というのは、常時戦争という側面があります。外では戦い、家庭では幸せをはぐくむということですよね。何と戦うのか?そして、どんな人と仲間を作るのか?を考えないといけません。

ビジネスパーソンは、何の戦いを行っているのかというと「創造性」の戦いでしょうね。経営者というのは、創造主として、自分の価値観を凝縮した世界を創造するのが仕事です。その作り出した価値ある世界に興味がある人がその創造物を活用することで売買が発生するということになります。魚を取っても、魚を鮮度の高い状態で商品として作るという工程があるから、商売として成り立つのですよね。なので、すべては創造活動だと考えた方が良いです。創造性において競合他社とどちらの世界が素晴らしいかということを顧客に問うというのが仕事なのですよね。これは、経営者に限らず、ビジネスパーソン、人間が生きていくためには創造性というのは、とても重要な事柄です。というよりも最も重要な事柄といっても良いでしょう。道徳・倫理を基礎としたバランスの取れたマーケティングミックスの創造が経営者の仕事と言っても良いでしょう。クリエイティブ・コンペティション、神様と同じように小さな世界を創造するのが人間の仕事ですね。神様のクリエイティブを参考にしながら、私たちも創造主として、世の中に最高のものを創造するのですよね。

これは本当かどうかわかりませんが、仏教って創造性の概念ってほとんどないんですよね。どちらかというと状況判断についての教義が多いのですよね。諸行無常・諸法無我・一切皆苦・涅槃寂静が教えですからね。当然ながら、仏教の思想をベースに創造性に役立てることはできるのですが、目指している先に、何か偉大なものを作り上げよう、という発想がないんですよね。作られたゲームの中での、プレイヤーとしての心構えなんですよね。ゲームそのものを創造する発想がないんですよね。ゲームの創造は、神様の領域で、プレイヤーとしての心構えは、仏様の領域なのかもしれませんね。そのようにすみ分けておくと誰に何を頼らないといけないのかが、明確になりますよね。ワールドクリエーションは、神様。プレイヤーアティチュードは、仏様に聞くというのが重要な切り分けだと今日認識しましたよね。

実際、神様と仏様と対話すべきないようって全然違うのではないか?と考えたことがあるのですよね。こういう世界観を作りたいです。と相談するのが神様で、こういう世界観の中でどのように立ち回ればよいでしょうか?と問うのが仏様なのですよね。現実を受け入れるための方法論が仏様で、現実を破壊して新しい世界を創造するスタンスは神様に相談すべき事柄なのですよね。いや、厳密に切り分けることは難しいですよね。仏教的世界観として、現実的な立ち回りをすることで、理想世界を創造することにつながるかもしれませんからね。キリスト教的世界観というのは、理想的な現実を創造するための立ち回りなので、微妙にアプローチが違うのですけどね。

ひいおじいちゃんが神仏を基礎とした生き方をしろと教義を残してくれていましたが、人間の生き方というのは、クリエイター側、プレイヤー側に必ず分かれるということですよね。両方の生き方をバランスよく改善・改革できなければ、パフォーマンスは上がりませんよということですよね。自分がどの立場なのかということを理解するうえで、クリエイター側とプレイヤー側に分けて判断するというのはとてもすっきりしますよね。プレイヤースキル、クリエイタースキルですね。人間というのは、プレイヤーであって、同時にクリエイターであるという属性を持っているのでしょうね。クリエイターのキャラクターにフォーカスした生き方を神様的生き方、プレイヤーのキャラクターにフォーカスした生き方を仏様的生き方と大別することができれば、現実への向き合い方としては、最適だと思いますよね。

神様は、バイブルという形で、やたらと創造物を残したがる傾向がありますが、仏様は、創造物が残っておらず口伝です。お釈迦さんは、生き方というのは、Well-beingというのは、その時代によって違うから文章として残すことはできないと考えたのでしょうね。一方で、キリストはクリエイター側の立場の人ですから、どんな混沌とした世の中でも秩序だった美しい世界をそれぞれの人々が作ればよいという発想だったということができますよね。そういう意味で行くと、神様と仏様のスタンスというのは、全く異なりますし、現実的には両方の宗派の生き方をミックスした考え方を状況に応じて使い分けるという発想がとても重要なのだと感じますよね。

そのことに気づいたひいおじいちゃんは、「神仏を基礎とした生き方」を推奨したのですね。私は、仏教を基礎とした、キリスト教を基礎とした、あるいは宗教を基礎とした、道徳・倫理を基礎としたとしなかった理由は、こういう意味合いもあると思いますよね。クリエイターとプレイヤーの生き方の象徴である神様と仏様の生き方を基礎として生きなさいというメッセージですよね。現代でも、生きている人の中でも、神様としてすごい人と、仏様としてすごい人というのは、全く異なるなと思いますからね。長年疑問だった世界観の違いというのものが良く理解できるようになりましたよね。神様としてすごい人と、仏様としてすごい人というのは全く違います。人間の生き方というのは、神様と仏様のブレンドした生き方が望ましいのですよね。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?