夏
チン、と甲高い音がして、エレベーターが止まる。
甲高い音は、耳から入ったことを感じさせない速さで頭の真ん中に届く。扉が開いて、何人か乗ってくる。「荷物や肌が触れ合うほどではない」くらいに混み合っている。エレベーターは、それ専用のエアコンが付いていないのか、フロアに比べると温度が高く、「人工的な寒さ」は緩和されているけれど、そのぶん「人工的な」部分が強調されている。無機質だ。こんなに近くにひとがいても。
目の前に、前に立つひとのうなじが見える。お互い身動きが取れない状況で、それをぼんやり眺めるしかない。白い肌に骨がラクダのこぶのように浮いている。
さっきエレベーターホールから見た外は、曇り空だった。夏の曇り空は、のっぺりとしていて、何もかも止まってしまったように見える。「1日」自体が早々と店じまいをして、じっと夜を待っているかのようだ。きっと、夜までどうやって時間を潰そうかと考えているのだ。
エレベーターを降りた後のことに考えを巡らせる。
「人工的な寒さ」のエントランスを抜けて、駅に向かう。外はきっと風も無く、暑さが皮膚にまとわりついてくるだろう。のっぺりとした夏の午後は、夏の、憂鬱な面ばかりが押し寄せてくる。なぜあんなにも全てが攻撃的なのか。ひとも街も、音も匂いも。その思いは、雨雲みたいにどんどんと体の中で膨れ上がって、心を押しつぶそうとする。夏の終わりが、ずっと先にあるように思えて、途方に暮れる。
エレベーターは、何度かフロアに止まり、何人かが入れ替わったあと、ラストスパートのように加速して、一気に降りていく。
午前中の太陽は、全く容赦がない。真っ直ぐに降り注いだそれは、アルミサッシの窓枠に反射して鈍く光る。力いっぱい降り注ぐ、蝉の声と重なる。窓の外、山の向こうに入道雲が見える。青い空、緑の山、白い雲。絵に描いたような夏だ。それを見ていると、夏はここからずっと離れた、遠いところにあって、ここだけ取り残されてしまったような気がしてくる。
昔の夏は、有無を言わさず全てを巻き込んでいたように思うけれど、最近の夏はそうでもないらしい。
扇風機が部屋の生ぬるい空気を惰性的にかき回している。何もしていないのにエアコンを付ける、ということに抵抗感(というより意地、のほうが近いかもしれない)があって、せめて午前中の、まだ気温が上がりきっていないうちは、エアコンをつけずに過ごしたいと思っているけれど、そろそろ限界が近づいているようだ。
夏は、一本道の下り坂を歩いているようなものだと、つくづく思う。
最初は周囲の風景を眺めながら、ゆっくりと歩いている。気になったものを手に取りつつ、触れた感覚に、まだ馴染みきっていない違和感と、圧倒的な懐かしさを覚える。やがて、物理の法則に従って坂道を加速していき、一気にゴールを駆け抜ける。ゴールテープのその先に何があるのか、毎年同じことをやっておきながら、今は思い出せない。
その代わり、ではないけれど「TVドラマを観るのは趣味といえるか」という昨日の話を思い出す。
外は、思いかげず雨が降っていた。
駅まで走ろうかと逡巡しているうちに、ごうごうという音とともに雨は強まり、完全に足止めされてしまった。諦めるしかない状況に、強張っていた体の力が抜けていく。風景画がシュレッダーで裁断されていくように、全てがリセットされていく。エレベーターの中で、「TVドラマを観るのは趣味といえるか」という話が聞こえてきたのを思い出す。
声の主は、家にいてTVを観ているだけの行為を、趣味と言い切ることに違和感があるらしい。分からないでもない。だけど、映画鑑賞や釣りとの違いはなんだろうか。家を出ること? お金を払うこと?
答えを求めていない問いであることも分かっているし、正解が無いことも分かっている。だけど、少なくともそれによって、生み出されるものや吐き出されるものがあるのだとしたら、それによって夏の憂鬱に立ち向かえるのだとしたら、それで十分なんじゃないかと思う。
だとしたら、これは何もしていないわけではないので、とひとりごちて、エアコンの電源を入れる。
夏の通り雨は、あっという間に上がり、雲の切れ間から顔を出した太陽の光は、街中の雨粒に反射して、そっと背中を押してくれた。
おしまい
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