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「講座制」と「学科目制」からみる研究室の構成

教授・准教授・助教がいる研究室と、教授(准教授)が一人だけいる研究室の違いの理由を知っていますか?

将来教員になりたい方は、そのルーツを知っておくことで、教員を目指す道筋の1つの指標になるでしょう。

両者の違いは、旧帝国大学系の大学と地方国立大学のでき方の違いから生じていると言われています。

1. 異なるルーツ

実は、そもそも旧帝国大学系の大学と地方国立大学は、異なるルーツを持っています。

戦前期の日本には、帝国大学・大学校・高等学校・大学予科・専門学校・高等師範学校・師範学校など、さまざまな学校が存在していました。

学校系統図
出典:文部科学省

それらは別々の法律の元で運営され、設置基準も異なっていました。
そして、機能的にも、総合大学であった帝国大学を除くと、全てが単科の高等教育機関でした。

2. 違いが生み出された背景

それが第二次世界大戦後の再編・統合をへて、1949年に単一の四年生の大学になりました。単機能の高等教育機関は、それぞれが新設された大学の専門学部として引き継がれ、69校の国立大学として発足しました。

当時は十分な資源の投入をすることができなかったため、戦前期の前身となった高等教育機関の設備がほとんどそのまま引き継がれました。

つまり、物的資源としてのキャンパスから、人的資源である教員、知的資源である図書館の蔵書、教育課程の主要部分、高等教育機関としての研究の蓄積まで、戦前期の大きな違いを残したまま継承してしまいました。
さらに言えば、社会的な評価の違いや、歴史的な伝統・威信までもが異なり、このような差異の継承が、国立大学間での格差を生み出す原因となりました。

この格差を自覚させるような具体的な事例も存在していました。
例えば、「国立総合大学」という名称は旧帝国大学系の大学にのみ許された呼び方であり、その他の国立大学は「複合大学」と当時は呼ばれました。
さらに、入学試験に関しても、一期校・二期校の区分制度があり、旧帝国大学を含めた大部分が一期校で、その他の大学は二期校となっていました。

3. 「講座制」と「学科目制」

しかしながら、このような格差を最も明確化させていたのが、「講座制」「学科目制」という教育研究の基本的な組織の違いでした。
これらの制度は、大学が担う教育と研究の機能に関わる、特に教員集団の組織を規定する原理でありながら、大学の性格を規定する上で重要な役割を果たしてきました。

もともと、「講座制」は、教育だけでなく研究の機能を持つ旧制の大学、それも帝国大学に固有の組織原理でした。それ以外の、研究機関としての役割を期待されていなかった高等教育機関は、旧制の高等学校も専門学校も全て「学科目制」でした。戦後の新たな大学制度では、高等学校も専門学校も師範学校も、全てが新しい大学に「昇格」したため、教育と研究の二つの機能を期待されるようになりましたが、「講座制」と「学科目制」という組織原理の違いを解消することがないまま、前出身校の組織形態を残したまま、新制大学が発足してしまうことになりました。

ここで一度、「講座制」と「学科目制」の中身を詳しく解説します。

「講座制」の講座は、ある学問分野の専門領域を表しています。原則として、教授:1、助教授(今の准教授):1、助手(今の助教):1〜3が配置され、教授・助教授・助手という3職階の教員がワンセットになって一つの講座が構成されます。一方で、「学科目制」では、教育に必要とされる主要教科目に応じて、教科目ごとに一人の教授ないしは助教授が配置されます。前者は教育と研究のための組織原理であり、後者は教育のための教員の組織原理であるという、性格の違いがはっきりと制度化されていました。

「講座制」は、大学院、研究大学、旧制帝国大学を含む旧制大学の基礎、「学科目制」の方は学部、教育大学、新制大学の基礎となり、地方国立大学のほとんどは「学科目制」をとる大学となりました。それによって、実質的には戦前以来の格差構造を「講座制」か「学科目制」という形で継承し、再生産することになりました。例えば、大学院は「学科目制」をとる新制大学には認められず、文部省の予算配分でも「講座制」と「学科目制」の大学では、4倍近い差が付けられていました。

この違いが、どのように解消されようとしているのかは次回!

参考文献

国立大学論——格差社会と法人化, 天野郁夫, 大学財務経営研究, 2006.
https://www.niad.ac.jp/media/001/201802/nf003011.pdf


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