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【書物】魅了のハエ

ティントゥス・リピゥス 著


クライシス期 435年。
その当時世界は、数百年前に突如として滅んだアルヴァン帝国の跡目を狙った争いが、各地で起こっていた。
これは一匹のハエが世界を魅了し、そのハエを手に入れようと多くの血が流れた事件である。

そのハエは、アムズマ地方の西大陸「ディペリ」の原生林で生まれた、と言われているが、これは正直信ぴょう性に欠けると言わざるを得ない。
たった1匹が、一度に100個以上卵を産むハエの生まれた場所など特定できるだろうか?

ともかくどこから現れたかはわかならいが、その1匹のハエが世界を混乱に陥れた。

そのハエは始め、たくさんのハエを伴って町に現れたという。町の人々はそのハエの大群を気味悪がり、駆除しようと試みた。

するとそのハエの群れを目掛けて、今度はたくさんの鳥が集まってきた。瞬く間に鳥たちに捕食されるハエの大群。
しかし、不思議なことに1匹のハエだけは、どの鳥たちもなぜか捕食しようとしない。

見かねた街の住人の1人が、ハエを潰そうと近づくと鳥たちは一斉にその住人を攻撃した。
たまらず逃げ出したその住人を追うことはせず、今度は鳥たちで殺し合いを始めてしまった。

そして今度は町で飼われていた犬や猫、果ては牛や馬などの家畜までハエの周りに集まって来て、狂ったように争い始める。

町の神父は、「悪魔の仕業だ」と祈りを捧げ、ある者は「疫病の前触れだ」と騒ぎ立て、またある者は「神のいたずらにすぎない」と笑って見ていた。

しかしやがてその彼らも、ハエに吸い寄せられていく。

「このハエは俺のものだ」
「いいえ、私のものよ」
「俺のハエに近づくな、俺が幸せにするんだ」

こうして、世にも奇妙で恐ろしい事件が幕を開けたのだった。

”1匹のハエを巡って一つの町で殺し合いが起き、10人以上が死傷した”
そんな噂が世界中を駆け巡った。

遠くに住む者たちは、その噂を聞いては
「そんなホラ話があるものか」
と一笑に付した。

アムズマ地方、「ミユゥーリャ」の王がこの話を聞きつけた。
退屈しのぎにとそのハエを探すことを命じた。

幸いにもそのハエは現在近くの町で奪い合いになっている、ということを知った王は、直ちに自国の兵を派遣した。

しかしいくら待っても兵たちは戻らない。
王や大臣たちがおかしいと感じていると、偵察に向かった兵士が血相を変えて飛び込んできた。

なんと兵士たちがハエを巡って、仲間同士で殺し合っているという。
信じられない、といったように目を見開く王だったが、それと同時に
「たかがハエごときがそれ程の力を持つとは、どういうことだ?」
と、そのハエを見てみたいという思いがますます強くなった。

そしてついに信頼している兵士に、ハエを連れ帰らせることに成功した王。
だが彼は兵士が連れてきたハエを見て、落胆を隠せない。

「なんじゃ、ただのブンブンうるさい普通のハエではないか」

だが次の瞬間、王はそのハエに吸い寄せられていく。

「は、早くそのハエをワシに差し出すのじゃ……。早くせんか!!」

興奮したように王は叫んだが、ハエを連れてきた兵士は王を睨みつけている。
その兵士は王がとても信頼を寄せている兵士であった。
それが今、大事な恋人を無理やり奪おうとする敵でも見るかのような視線を、主君に向けている。

「この馬鹿者っ! 早く渡さんかっ!!」
「断りますっ!! このハエは僕の大切なハエです!!」

王と兵士は一歩も譲らず睨み合う。

「お待ちください、王よ!」
割って入ったのは大臣である。

「失礼ながら、そのハエに心奪われました。彼女をあなた方から守るのが、この私の義務!」
とうとう大臣まで、ハエ争奪に参戦してしまった。

こうして一つの王国で、1匹のハエを巡って血なまぐさい争いが起こってしまったのだった。

そしてそれは連鎖していった。
「あの国を滅亡させるだけのハエとはどんなハエなのか見てみたい」
「そのハエを捕まえることができれば、大国から多額の報酬を得られるかもしれない」

人々は躍起になってそのハエを探し求めた。
そして見つけては魅了され、奪い合い、殺し合った。

そんなことが1年も続いたある日、この珍事件はあっさりと終焉を迎える。
アムズマ地方、中央大陸「カントゥリー」の東海岸にある町「ビューレスト」に、その時のハエの所有者の男が宿泊していた。

男は非合法な組織に多額の借金をしており、それを返済するべく、巷で話題の「魅了するハエ」を捕まえたのだった。
しかし結局は彼もそのハエに魅了され、借金取りへの返済を断念し、大切なハエと逃亡生活を送っていたのだった。

彼が眠っていると組織の取り立て屋、数人がやって来て男を叩き起こした。
そして彼の荷物を改める。
中からはハエの入ったケースが出てきて、男たちは最初馬鹿にしたように笑っていたが、すぐにそのハエに魅了されてしまった。

男と取り立て屋たちでもみ合いになり、ビューレストの鍛冶用共用炉まで奪い合いながら移動してきた。
その時である。
取り立て屋の男が手を滑らせて、ハエの入ったケースを共用炉に落としてしまった。

雌雄どころか種族も問わず魅了し続けたハエだったが、それ以外に関してはどうやらただのハエだったらしく、当然のように一瞬で燃え尽きてしまった。

男も、取り立て屋の男もお互いの事情などそっちのけで大声で嘆き悲しんだ。
それは彼らだけではなかった。

一度あのハエに魅了された者たちは、深い深い悲しみのどん底に沈んだという。

そしてあのハエのことが忘れられず、近くで捕まえてきたハエに面影を重ねて愛そうとした。

……が、当然ながら普通のハエはただのハエであり、その愛が続くことはなかった。

この時のことを知る人々は、神が与える「魅了」という能力の恐ろしさを後世に伝えようとこの話を語り継ぎたい、と語ったという。

現在、ビューレストの共用炉跡には、「魅了するハエ」の石碑が建てられている。
さすがに石碑には魅了の効果はないため、もしアムズマ地方を訪れることがあればぜひ観光してみて欲しい。


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