挑戦する組織には臆病者が必要だ

世の中、物事を止めた人は評価されない。新しい商品、新しい事業を前に進めた人は評価されるが、儲からないと言って却下した人は恨みは買いこそすれ決して評価はされない。ノーベル臆病賞をもらえるのは、わずかな可能性に賭けて無謀な挑戦を成し遂げた勇敢な人であって、巨額の設備投資を断念させた臆病な経営者ではないのだ(なぜ断言できるかというと、そんな賞はないから)。不確実性の高い時代だからと、新しいことにはできるだけ早くできるだけ多くチャレンジすることが大事だという風潮も、輪をかける。

9.11テロ後、ニューヨークのジュリアーニ市長は、テロと戦う姿勢を見せて称賛された。警備強化も行った。しかしもしもこの1か月前に手荷物検査の厳格化を強引に推し進め、テロを未然に防いで人命を救った権力者がいたとして、世間は正しく評価できただろうか?

最終回、ビハインドの場面で、ランナーを止めた3塁コーチが「よく止めた」と言ってもらっているのを聞いたことがない。あるのは「よく回した」だけだ。3塁コーチの判断を暴走と批判するのであれば、彼の監督はランナーを止めたときにも正当な評価を与えねば整合しない。うまくいかなかったときに責めるだけなら誰でもできる。

今、最も勢いのあるバンドが、差別的な表現を含むミュージックビデオを制作したとして、一スタッフのあなたは止めることができるだろうか?その時点で莫大な金がかかっている。しかも世界No.1の飲料メーカーのタイアップもついてしまっている。バンドメンバーも他のスタッフも歴史認識が本当になかったとして、だが明らかにマズイ表現が含まれている(というかほぼそのものがそれだ)という状況で、あなたは指摘することができるだろうか、指摘したとして受け入れてもらえるだろうか。攻めててチャレンジングな表現を理解できないダサい奴へともちろん一直線だろう。進めることと止めることは同じぐらい勇気が要る。

巨大な液晶工場の建設を決断した経営者は、ほんの少しの間この世の春を謳歌した後、どこかに消えてしまった。続々と投資が進む半導体産業、空前の路線価に湧いているようだが、あの勇敢な経営者の二の舞にならないだろうか。

3.11の大震災前に、スーパー堤防やダムの建設に待ったをかけた人は評価されただろうか?いや、この人たちはムダな歳出を削減したとして当時喝采を浴びていたっけな。

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