盲目の目撃者が見た「見て見ぬふり」(映画『梟ーフクロウー』)

『梟ーフクロウー』という韓国映画をみてきた。J-WAVEのRADIO DONUTSという番組で紹介されていたものだ。金曜日の20時台の回、みんなどこで情報を仕入れてくるのかわからないが、一定数の客が入っており驚いた。

結論からいうと、めちゃくちゃよかった。2024年1本目の映画だが、暫定ではなく堂々の今年No.1だ。以下、感想を書いていこうと思うが、内容にも少し触れるので、これからみようと思っている人はご注意を。


おもしろかった点はシンプルで、緊迫したスリリングな展開が続くこと。政治ものでは定番だが、登場人物とともに観客も何度も裏切られる。助かったと思った瞬間に訪れる次のピンチの連続。

前半こそ、歴史知識、用語、人物の見分けなどに苦労したが、物語が加速してからは流れに身を任せておくだけでよかった。

このおもしろさのベースにあるのは「盲目だけど少し見える」という設定で、主人公にとってはこれが制約であり場面によっては逆に突破口にもなっている。盲目の「目撃者」とはどういうことか、超人的な聴覚や嗅覚を駆使した話になっているのかと思ったが、文字通りであり、この点からすでに騙されていた。

恋愛要素を排しているのもよかった。恋愛要素が入ると、どうしてもスピード感が落ちてしまう。守る対象を妃にもできたと思うが子供にして正解だった。

政治の世界、これは社内政治でもそうだろうが、外圧に向き合う際には、他人を蹴落としている場合ではない。自分を脅かすようなライバルや有望株がいるのであれば、むしろエネルギーを結集して自組織の戦力を高めねばならない。スポーツチームでいえば、レギュラー選手にケガをさせれば控えの自分の出場機会は増えるが、チーム成績は悪くなる。頭ではわかっていることだが、ゲーム理論よろしく自分だけが抜け駆けすれば目前の利益の誘惑にかられてしまうものではある。古今東西、このような冷酷で内向きな足の引っ張り合いが、水面下を含めて数多く繰り広げられてきたことだろう(ちなみにプロジェクトマネジメントにおいては、「仮想敵」を作ることで内部を一枚岩にできるなんて話もある)。

本作でたびたび語られる「見て見ぬふり」は、物理的な視覚の意味と、自分の心に正直であるかという意味の二重の意味をもっていた。最後に主人公が何度も宣言する「私が見ました」という力強いセリフとともに、重い。

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