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異色の軍人・山本五十六 避戦、早期講和を阻んだ組織の壁|【特集】真珠湾攻撃から80年 明日を拓く昭和史論[COLUMN]

80年前の1941年、日本は太平洋戦争へと突入した。当時の軍部の意思決定、情報や兵站を軽視する姿勢、メディアが果たした役割を紐解くと、令和の日本と二重写しになる。国家の〝漂流〟が続く今だからこそ昭和史から学び、日本の明日を拓くときだ。

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文・畑野 勇(根津育英会武蔵学園勤務)

真珠湾攻撃を指揮した山本は、開戦前からこの戦争の回避に向けて動いていた。「常識外」とされた構想で彼は何を企図し、組織をどう動かそうとしたのか。

 真珠湾攻撃で帝国海軍連合艦隊を率いた山本五十六について、一般に抱かれているイメージは、「対英米避戦を強く願いながらも連合艦隊司令長官として真珠湾攻撃を主導する役回りとなり、やがて悲劇的な戦死を遂げた」といったものであろう。ここでは彼が開戦に際し、どのような行動をとったのかを見ていきたい。

 初来日の1904年から40年までのほとんどを駐日英国大使館で勤務し、30年代後半の日本の対外政策に厳しい態度を貫いた外交官に、ジョージ・サンソムがいた。彼が日本政治を分析する上で重視した視点は、戦後の48年に彼が雑誌『インターナショナル・アフェアーズ』に寄稿した「日本の致命的失策」という論文の中に見出される。

 彼はそこにおいて、当該期の日本政治を評して「戦争か平和かの死活的な決定は、或る時期における単純な二者択一ではなくして、それに先立つ行為が累積した結果に左右される」と述べている。筆者なりにこの点を整理すると、日本が戦争に突入するか否かという重大な岐路に立ったときに重視されたのは、①「それまでの政策の実施や結果の積み重ね」であって、②「その時点での情勢分析に基づく最良の路線追求」ではない、ということになる。

 そこで日独伊三国同盟の締結(40年9月)から太平洋戦争突入までの山本五十六の言動をたどってみると、彼は明らかに(そして当時の海軍部内でおそらくただ一人)、②の考えに基づき行動した人物といえる。

 たとえば、三国同盟の締結を海軍が正式に認めたのは40年9月15日の海軍首脳部会議においてであるが、ここで議論の方向を確定したのは、当時の軍令部総長であった伏見宮博恭王による、「ここまで来たら仕方がないね」という、国内外の情勢を追認する発言であった。

 しかしこの席上で山本はただ一人、同盟締結による米国との関係悪化や、海軍の戦力整備の不安について、どういう対策を講じるつもりであるのか、当時の及川古志郎海軍大臣らに正面から詰問し、同盟締結に最後まで批判的な見解を明示した。そして、これまであまり知られていないことであるが、現実には山本は同盟への賛成決定を追認したのではなく、伏見宮に対して、海軍戦力整備のための資材獲得の重要性を進言していた。

 伏見宮はそれに同意し、三国同盟締結を正式に国策として決定した40年9月19日の御前会議では、山本の進言内容をほとんど全て取り入れた内容の発言を行っている。そして開戦までの間、海軍の戦備充実は最も優先された施策の一つとなった。

 来たるべき太平洋戦争への準備にのみ専心したと解釈されがちな、この山本の行動は、同時に戦争の長期化を回避する目的での人事上の構想も伴っていた。この構想も伏見宮(当時の高級人事はすべて、宮の同意を得るのが海軍部内の慣行であった)に認めさせている。

 これらは一見、論理的に両立しないように見えるが、これまでの行きがかりにとらわれず、政治的展開として考えられるいくつものケースを念頭に置き、水面下で構想の実現を図った点で、山本のユニークさが露わになる部分である。

 山本は、かつて海軍次官当時に仕えた大臣であった米内光政(その後首相に就任する時に予備役に編入されていた)を現役に復帰させ、伏見宮の後任の軍令部総長とすることを意図して、人事の権限を持つ及川古志郎海軍大臣に再三の働きかけを行った。

 山本は米内の軍令部総長への復帰の前段階として、まず米内が現役に復帰して連合艦隊司令長官に就任することを意図した。そして、この人事構想と同時に、対米開戦時には劈頭へきとうに真珠湾攻撃が必要であるということを、及川に再三書簡で伝えている。

山本記念公園

山本五十六像のある新潟県長岡市の山本記念公園。山本の生家跡につくられた(AFLO)

「米内復帰」による避戦
早期の戦争終結に賭ける

 真珠湾を空襲するという構想は当時、米軍の強力な反撃によって攻撃部隊の潰滅を招く可能性が高く、投機性のきわめて強い、危険性に満ちた作戦である、という評価が海軍部内で支配的であったが、山本はそれを承知で、あえてこの構想の具体化に突き進んだ。

 その理由として、41年1月に及川にあてた書簡「戦備に関する意見」で山本はこう記している。「日米戦争で、日本が第一にしなければならないのは、開戦劈頭、敵主力艦隊を猛撃撃破して、米海軍と米国民にすっかり士気阻喪」させることであり、そのための真珠湾空襲作戦である。そしてこのために必要なことは「米内光政連合艦隊司令長官・山本五十六第一航空艦隊(=真珠湾空襲部隊)司令長官」という人事発令が必要である、というものであった。

 山本にとって米内の現役復帰は、対米避戦を考慮した(米内であれば、統帥面での最高責任者として戦争突入不可を明言し、陸軍や海軍部内の強硬派を抑えられるという期待があった模様である)だけでなく、いよいよ戦争が避けられなくなった場合の、早期の戦争終結に向けた事態収拾の布石でもあった。

 山本は50代半ばになってもスイスの教育者・ペスタロッチの岩波文庫版著作を愛読するなど、海軍部内でのスタイルにとらわれない教育や人材育成のあり方に関心が深かった。そして、思考様式が画一的であり、大勢順応的であると評された海軍軍人の中では、ユニークな情勢分析力や構想力・実行力を備えていた。

 この米内現役復帰構想が実現していたら、太平洋戦争の経過は史実と全く異なった展開をたどったと思われる(あるいは、対英米開戦も回避されたかもしれない)が、伏見宮や及川、そして部内の事務当局にとって、山本の構想は常識外に思われた模様であり、結局において米内の現役復帰・自身の更迭という構想は戦争突入までに実現しなかった。

 たとえばこの当時、健康上の理由で軍令部総長退任を考えていた伏見宮は、米内を自分の後任とする山本の案にいったんは賛同したが、最終的に伏見宮は自身の軍令部総長退任に際して、後任として米内ではなく永野修身を指名した。これは、戦争突入が迫っている情勢下での主体的な判断によるものではなく、現役の最長老であり米内より先輩でもあった永野を差し置いて、米内を任命することには躊躇があったという、人事慣行上の思考によるもののようである。

 山本が伏見宮へのたびたびの進言を通じて追求した二つの目標は不可分一体として実現されるべきものであったが、それがいずれも空しくなって以降、彼は「自棄的・玉砕的とも見える連続進攻戦略」(秦郁彦『昭和史の軍人たち』文藝春秋、1982年)に終始せざるを得なくなった。43年4月、山本は自ら最前線への視察に赴くが、その情報を掴んだ米軍により、ブーゲンビル島上空飛行中に乗機が撃墜され戦死する。そしてこれ以降の日本軍は最後まで、退勢を挽回できなかった。

 日本の戦争突入の可否は、独伊と同盟を結んだ日本が、英米に対する戦争への勝利の可能性をどれだけ持ちうるか、つまり前述の②の観点から検討されるべきであったが、当時の海軍部内でも日本政府内でも、決定的な力を持ったのは①の観点であった。

 なぜこのような事態が生じたかを考える上で、前出のサンソムが日本の政治文化の伝統や特質について、少数者の発言権の欠如、同意による政治の不在、政治的寛容の伝統が育たなかった問題性などを指摘している点は、現代でも十分に検討に値するものと言えよう。

畑野 勇(Isamu Hatano)
根津育英会武蔵学園勤務
1971年生まれ。95年、武蔵工業大学工学部電気電子工学科卒業。2002年、成蹊大学大学院法学政治学研究科博士後期課程修了、博士号(政治学)取得。著書に『近代日本の軍産学複合体』(創文社)。

出典:Wedge 2021年9月号

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