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繰り返される「天皇工作」 日本はもっとしたたかさを持て|【特集】「共産党100年」論に踊らされず 中国にはこう向き合え[PART-2]

城山英巳(北海道大学大学院メディア・コミュニケーション研究院教授)

天皇陛下によろしく——。伝統的かつ巧みな日本「利用」の意図を見抜き、相手の一枚上手をいく外交を展開すべきだ。

 結党から100年を迎える中国共産党と日本との関係の中で、1992年に実現した史上初の天皇訪中は、戦争からの和解を導こうとする政治外交交渉の結果として実現したが、戦争責任と結び付く天皇と中国の関係は長くかつ複雑だった。

「日中関係史の中の天皇」を考察する際、転換点となる年として①1945年、②56年、③78年、④89年が挙げられる。筆者はこのほど、『マオとミカド』(白水社)を上梓し、天皇をめぐる日中の工作裏面史を描いたが、歴史を振り返れば、現在の米中「新冷戦」の中で対応を迫られる日本の立ち位置も自ずと見えてくる。

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中国共産党は戦略的に天皇訪中を画策していた(華国鋒首相〈左〉と乾杯される昭和天皇:1980年05月27日撮影)JIJI

中国共産党の〝天皇工作〟を振り返る

 まず1945年。日本の敗戦が確実な情勢になる中、毛沢東・共産党にとっての「主要敵」はもはや日本ではなく、蔣介石・国民党であった。同年5月に毛沢東は、当時延安(陝西省)にいた日本共産党の野坂参三(戦後に同党議長)に対する手紙の中で「私は、日本人民が天皇を不要にすることは、おそらく短期間のうちにできるものではないと推測しています」と記し、天皇制の即時廃止は現実的でなく、その存廃は日本人民の意思に委ねるべきだという野坂の考えを支持した。

 しかし国民党との内戦に勝利し、49年に中華人民共和国を建国した毛沢東は、東西冷戦の中で「ソ連一辺倒」を選び、ソ連が同年末に開いたハバロフスク戦犯裁判に同調し、一転、昭和天皇を第一の戦犯としてキャンペーンを展開する。

 次の展開は1956年。毛沢東は、対中侵略に関与した元軍人代表団を中国に招待し、会談に応じた。会談の記録を収めた『毛沢東年譜』には毛の言葉として「日本には天皇がいます。我々は彼らの制度を尊重します」と記された。毛は天皇を「戦犯」ではなく「元首」と捉え、天皇制を容認したのだ。

 代表団に参加して毛沢東の差し向かいの席に座った元陸軍中将・土居明夫は回顧録で、毛沢東が「天皇陛下によろしく」と敬称を付けて話したことに驚き、通訳に本当に「陛下」と言ったかどうかを確認したほどだったと記している。

 こうした背景には、敵対する米国・台湾と日本の間に楔を打ち込む狙いがあった。

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